遺書を書いてみた
2年前から定期的に遺書を書いている。
宛名は家族や当時付き合っていた恋人、友人、研究室の人たち。
思いつく限り迷惑をかけそうな人たちに向けて書いた。
心身共に健康で、両膝と腰のヘルニアだけが老後の心配な23歳がなぜ遺書を書いているのか。
それは山に登るからだ。
きっかけは2年前に友人と登った憧れの槍ヶ岳~穂高岳縦走。
上高地~槍~大キレット~北穂~奥穂~前穂~重太郎新道~上高地の盛りだくさんルートである。我ながらわんぱくだった。
当時の記事はこちら(すかさず宣伝)
さて、何を隠そうこのルートは大キレットを通過しなければならない。これまでの山行とは一線を画す難易度で「さすがに書いておくか……」となったわけである。
実際に書いてみると思っていたより気恥ずかしく、iphoneのパスワード、通帳や印鑑の場所、サブスクの解約などなど事務連絡以上のことを書けなかった。
そして登山中、死に直面した。
北穂高から穂高岳山荘の間の奥穂バンドと呼ばれる難所で、頭上にでっぱった岩に気づかず、崖っぷちで仰け反る姿勢になってしまった。
DIOばりに仰け反っていた。
北アルプスの稜線で一人「WRYYYYYYYYYYーーーーーッ」していた。
僕にも時を止める能力があったのか、全力で岩をつかんでなんとか体勢を整えることができた。(不死身ッ!!不老不死ッ!)
もし手が滑っていたら涸沢に落ちていたと思う。今でも夢にでてくる。
今後大キレットを往復しろと言われても喜んで行くが、奥穂バンドだけは渡りたくない。
帰宅後、その次の週に故郷の石鎚登山を控えていた僕は改めて遺書を書き直すことにした。
どんな山に行ったか、登山を開始するに至った経緯や天気予報の判断、パーティーメンバーやその保護者への謝罪にはじまり、前に書いていた事務連絡を書き連ねた。
そして、前回避けてしまった家族や友人達へのメッセージを書き始めた。
自分の死が現実のものとなったような、自分の葬式を俯瞰しているような気分になった。花粉症以外では泣かない僕も珍しく涙がこぼれおちた。
遺書を書いていると言うと当時付き合っていた彼女は、現実味を帯びそうだからやめなよと口を出す。遺書を書くぐらいなら登山に行くなと。
でも人はいつ死ぬかなんてわからない。
小学校の頃、バスケをしてへとへとになって家に帰ると、父が病院に運ばれたと告げられた。もともと怪我の多い父だった(船上で全身をやけどしたこともあった)ので今回も大丈夫だと高をくくって、暇つぶし用の漫画を片手に病院に向かった。父はその晩、息を引き取った。
残された側には時間と別れの言葉が必要だと思う。
だから僕は遺書を書くことにしている。登山に行くかどうかに関わらず。
そんなことがありながらも、「気をつけて行ってらっしゃい」と母は僕の登山を応援してくれている。絶対に生きて帰らねばならない。遺書は万が一の保険である。
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