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小さな孤独を減らせる場所をつくれれば。


学生の時、半年間だけ、パリに留学に行った。


その時に思ったのは、
なぜこんなに、この国のご高齢者、特に男性はたのしそうなんだろうということ。

こんな光景は、日本ではなかなか見ない。
日本の会社を定年退職した人は、どこに行ってしまったんだろう。



ふと、父と母の最後を思い出す。
それはとても対照的だった。


母は、僕がずっと小さな頃からサッカーをやっていたこともあって、部活での母親コミュニティで活発に活動していた。自分から率先して、料理をつくったりしていて、当事者の僕はベンチを温める一方で、母は本当に楽しそうだったなと思う。

母の最期は割と賑やかだった。僕は高校から地元を離れて、大学も長崎で、僕自身は地元の友人とも交流はなかったのだけれども、母の式には、たくさんのお母さん友達がきてくれた。


父は、孤独な人だったのかもしれない。

いつからか、僕は父が嫌いになった。

ただ、それが原因で、孤独になっていったのかもしれない。
父は仕事を定年退職し、よく家にいるようになった。だけれども、周りの仕事仲間が一緒に退職しているわけでもない。家にたまに仕事先の人が来るけれども、いつもみる人だけだ。

定年退職した父は、何度か社会にでようとした。
バイトをやってみようと努力していたと思う。
それでも、なかなか人間関係を0から作ろうとするのは、
18歳のころから同じところでずっと働いていた、不器用な彼にはなかなか難しいと思うし、そんな状況で、二回りも三回りも歳下の10代の青年と働けるかと言われたら、正直難しいかもしれない。

もともと僕が生まれる前から、病気を持っていたそうだけれど、退職した父は、入院するようになった。

今思えば、ひどいことをしてしまったと後悔するけれど、父は孤独だったと思う。

大学にでた僕もなかなか帰ることなく、死に際には立ち会えなかった。
葬儀に来る人も、当たり前のように仕事場の人は来るけれども、高校生のときの友人がきていたりしたのかは全くわからなかった。


孤独が一番怖い。

両親の対照的な最期をみて、なんとなくわかった。

僕らのこの生きている国は、孤独になりやすい。

それは当たり前だ。
この国は、終戦を超えて、高度成長期を支え、バブルを乗り越えるために、先人たちは必死で仕事をしてきてくれた。
だから、いまの僕たちは、幸せに生きることが、昔よりやりやすくなっている。

でもね。
その一方で、先人たちも僕たちも、仕事、特に会社を通した関係性しか育むことができず、しかもその関係性はびっくりするくらい途切れやすいんだ。

あくまで、仕事というマストな状態で、夜遅くまで働いて、会社と、社会と、家族を支えている。

一日の、そして人生の大半を占める仕事という関係性も、気づくと、退職するころには数えられるほどしか同じ時に辞める同期はいなく、一斉に卒業する学校と比べ、一人さびしく会社を去る。

一方で、パリの老人は、絵画に、スポーツに、様々なコミュニティを持ち、その老後を謳歌しているように見えた。

それは、なぜだろう。

考えるといくつも仮説がでる。

・労働時間が日本より少ない。
・まとまったバカンスの存在。
・ベビシッターなどの家事の外注化が当たり前。
これにより、会社内外、家族との関係性を育む時間が多いのだろうと思う。

そして、遊ぶことを当たり前にして、若い頃からコミュニティを持つ彼らは、老後も楽しめているのではないかと思う。


僕は、何ができるだろう。

働くことも改めて見つめられてきて、この国の人達は、持て余した時間の行き場をさがしている。

スマートフォンの登場により、知らない人が、誰かとつながって楽しそうにしているのを感じている。

僕は、誰かと一緒にいたいんだ。

そして、僕にできるのは、写真で場所を作ることだけだ。

いまやっているオンラインサロンのSalon de Photoを、これからもっと大事にする。写真を撮る人も撮ってもらいたい人もいると思う。そんなとき、このサロンを通じて交流してもらえたらうれしい。生涯通して、ゆるく、繋がって、最期を迎える時に暖かく目を閉じられたらいいなと思うんだ。

よし、がんばろう。



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