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冬の散歩と大判焼き(小説)


わたしの夫、金子遊弥は少し変わった人だ。


友人の紹介で初めて一緒に食事をした時の第一印象は、物腰柔らかな関西弁にあまり表情の動かない、穏やかそうな人、というものだった。

だから帰り際、突然「今度は食事やなくて、何か別のことがしたいですね。散歩とか行きませんか」と言われた時は驚いた。

「え、散歩? なんで……散歩なんですか」
「一緒にご飯食べるより、お互いのこと知る方法は他にもあると思て……ぶらぶら歩きながら色んなこと話せるでしょう? あ、もちろん、あんまり散歩好きじゃないんやったら映画とか遊園地でも、全然」

わたしは少し戸惑いながらも、「散歩デート」を了承した。

今思うとなぜ了承したのかはよくわからない。

でも、遊弥との散歩デートは存外楽しかった。河原をぶらぶら歩いていると、おしゃれな店で食事する時は出てこない、率直な言葉が出てきた。並んで歩く彼の横顔は相変わらず無表情だったけど、最初のデートに比べると彼は自然体だったし、わたしも自然体でいられた。

その後、籍を入れて彼の暮らしていた街で新たにアパートを借りたのは、去年の冬のことだ。その時点で、既に彼が変わった人というのは気づいていたのだから、些細な事でムキになってはダメなのかもしれない。


それでも土曜日の朝ーー胸のモヤモヤが抑えられず、いつもより2時間以上早く目が覚めてしまったわたしは、財布と携帯、家の鍵だけを持って、1人、朝の散歩に出かけた。

朝、といっても家を出た時には既に9時をすぎていて、太陽は空の割と高いところまであがっていた。

休日の住宅地はいつにもまして静かだ。車が1台通り過ぎたくらいで、あとは誰ともすれ違わない。

アパートや没個性的な戸建て住宅が並ぶこの辺りは、景色を見てもつまらないだけだ。うつむき加減で足早に進んでいく。

☆ ☆ ☆


モヤモヤの原因ははっきりしている。昨日の晩、10時くらいに外で食べて帰ってきた夫との小競り合いのせいだ。

お互い仕事が忙しく、平日は一緒に夕飯を食べることが難しいから、土曜日の朝は一緒にコーヒーを飲んでお菓子を食べよう、と提案したのは甘党の夫の方だ。

だけど昨日の晩、職場の同僚からもらったかりんとうを見て、夫は難色を示した。

「あれ、かりんとう嫌いだっけ?」
「ここの店のかりんとう、あんまり甘なくてむしろしょっぱいから、あんまり好きちゃうねん……コーヒーには合わへんし」

「そうかな? 甘じょっぱいお菓子の部類に入る気がするけど……」
「俺、甘じょっぱいっていう概念が苦手やねん。コーヒーにはもっと、ガツンと甘いやつがええな」

「……遊弥は和菓子が好きだって言ってたから、喜ぶかと思ったのに。大判焼きとかも甘さ控えめだけど、コーヒーと一緒によく食べてるじゃない」
「回転焼きな。でもあれは和菓子の中でもだいぶ甘いで。和菓子は和菓子でも、塩大福とかみたらし団子はあんま食べへんよ」

律儀にお菓子の名前を訂正したのにも、わたしは少しカチンときた。

遊弥は自分の食べるもの、特にお菓子にはこだわりがあって、わたしに強制はしてこないけれど、譲るということもしない。

でもそんなことで怒るのも大人げない、と思い、かりんとうの箱は一旦キッチンの戸棚にしまったがーー心に残った違和感は、うまくしまい込めなかった。



☆ ☆ ☆

住宅地をしばらく歩き、高速道路のガード下のあたりにくると、景色が一変する。目の前にだだっ広い畑が見えてきた。この時期は何も作っていないのか、茶色い土の上には雑草が生い茂っている。

……いや、よく見ると作物はあった。畑の真ん中、ぽつんと建っているトタン屋根の農具小屋。その横に、一本の柿の木があった。葉が落ちてしまった裸の枝に、3、4個熟れすぎた柿が実ぶら下がっていた。


木枯らしが吹き、冷たい空気がわたしの服の隙間を通り抜けていく。わたしはポケットに手を入れる。休日の朝ーーいつもなら遊弥と一緒に家でカフェオレを飲んでいる時間帯に、1人であてもなく歩くことがこんなに寂しいとは、思わなかった。


わたしはきっとーーわたしが思っているよりも遊弥のことが好きなんだろう。恋人として、というよりは、一緒に何かを食べたりだとか、そういう些細な日常を彼と一緒に過ごすのが好きだ。


でも、一緒にいると心地よいと思えば思うほどーー彼の自分とは違う部分が許せなくなっている。そんな器の小さい自分にも腹が立つ。



あばら小屋から目をそらし、河原の方へとずんずん進む。12月の初旬、風は冷たいけれど日なたにいるとぽかぽかと暖かい。千鳥川沿いの遊歩道には、犬の散歩をする人や手押し車の老婦人、若いカップルなどがいた。

わたしもペースを緩めて、川面を眺めながら歩く。

陽の光を反射しキラキラと光る川面には、カモが2、3羽浮かんでいた。千鳥川、というけれどこの川で千鳥なんか見たことはない、カモに占拠されている、と遊弥はよく言っている。


わたしにはそもそも千鳥がどんな鳥なのかわからないのだけど、確かにここのカモたちは、すぐ近くに人がいてもお構いなしに羽繕いをしている。占拠、というのは言い過ぎじゃないかもしれないな、と頬を緩めた。


遊弥との「散歩デート」の日も、近くにある農産物直売所で買ったソフトクリームを食べながら、こんなたわいもないことを話していた。散歩コースは、遊弥が当時住んでいた駅前のアパートから河原をぐるっと回ってアパートに戻る道のり。

「1人で散歩してる時、何考えてるの?」
「……そう言われても、何も思いつかんな。何考えてるんやろ」

「あてもなく歩くのが好きってことは、何か、思考を整理してるとか、考え事してるのかなって思ったけど」
「いや、別に……割と『無』やな」
「『無』?」
「うん。何も考えてへんな」

それから話したことはあまり覚えていないけれど、お互いが頼んだソフトの種類は覚えている。わたしは名物のしょうゆソフト、彼はどこにでも売っているバニラソフト。そして彼がソフトクリームを食べ終わった後、コーンを口に放り込み、バリバリと豪快に食べていたこと。

その時の散歩コースの中間あたりで右に曲がり、橋を渡る。その先には再び住宅地。その中をしばらく歩くと急な登り坂が現れる。この坂の先には、有名なお寺とその門前町がある。

坂の両脇にある家は、白い壁や立派な垣根に囲われた、古くからの家が多い。住宅の隙間にはひっそりと墓場があったり、突然鬱蒼とした木々が現れたりする。


木々に左右を挟まれた小道を抜けると、そこは寺へ向かう参道の入り口だった。蕎麦屋や和菓子屋、茶屋が並ぶ石畳の道は、住宅街の静けさから一転してにぎやかだ。

「お団子焼き立てだよー、いかがですかぁ」

醤油の香ばしい匂いと店員さんの愛想のいい呼び声に、茶屋の店先で立ち止まった。店先に置かれた、団子4本入りのパックに手を伸ばしかけて、手を止める。

「すみません、みたらし団子って1本からでも買えますか」
「もちろん! すぐ食べるんならそのままお渡ししますよ」


店員さんから手渡されたみたらし団子をほおばりながら、わたしは参道をぶらぶらと歩いた。

参道の片側には立派な石垣、もう片側は紅く色づいた木々に囲まれていた。テレビで何度も取り上げられている老舗の蕎麦屋は、まだ昼時には早いというのに店前に行列ができている。美しい紅葉を見ながら食事ができる旅館の駐車場には多くの車が停まっている。


「焼きたて 大判焼き」

ふと、参道の外れにあるこじんまりとした店の張り紙が目に留まった。マジックで書いただけの素っ気ない張り紙。ガラス越しに、おばあさんが鉄板に向かい、大判焼きの生地をくるくると器用にひっくり返しているのが見えた。

「……確かに、『回転焼き』だなぁ」

遊弥がその食べ物を呼ぶ名を口にしてみる。耳で聞くと馴染まないその言葉は、自分で声に出してみると不思議と違和感がない。

その時、ガラス越しにおばあさんと目が合った。

「あ……一つ、ください」

わたしは鞄にしまった財布を再び取り出した。


✴︎ ✴︎ ✴︎


「ただいまぁ」

結局2時間ほど歩き回っていたわたしが家に着いたころには、もうじきお昼という時間になっていた。

帰り道で感じていたほどよい疲労感は、家につくとずっしりと重い疲れに変わる。スニーカーの紐をほどくため玄関の上がり框に腰かけると、根が生えてしまったかのように動けなくなってしまった。

「お、お帰り」
わたしがドアを開けた音を聞いたのか、リビングにつながるドアから、遊弥が恐る恐るという感じで顔を出した。

「ごめん、ちょっと手貸してもらっていいかな。立てなくなっちゃって」
「大丈夫か……?」
「2時間くらいずっと歩いてたから疲れちゃって。あ、これお土産。鴫山寺の参道で買った大判焼き。そば粉が入ってるやつもあったけど、普通のにしたよ」

遊弥は呆れたような様子だったが、手は差し伸べてくれた。


リビングのテーブルの上には、すっかり冷めてしまったカフェオレが入ったコーヒーカップが二つ置いてある。

「あ、ごめん。帰る時間くらいラインすればよかったね」
「いや、ええよ。回転焼き温めるついでにチンするわ」

そう言って和菓子屋のロゴが入った紙袋の中を覗き込み、遊弥は怪訝な顔をした。

「……これ、1個しか入ってへんけど」
「わたしはお茶屋でみたらし団子食べたから。でも遊弥はこっちの方が好きでしょ?」

遊弥は一瞬、戸惑ったような顔をした。けれど、すぐにいつもの無表情に戻ると、
「そうか。ありがとうな」
とだけ言った。


テーブルには、湯気を立てるマグカップが二つと、皿に乗った回転焼き、キッチンの棚から引っ張り出したかりんとう。

牛乳を入れた後でチンしたからか、マグカップには牛乳の膜がうっすら張っている。カップを包み込む両手に伝わる、ちょうどいい温かさ。冗長なバラエティ番組を垂れ流していたテレビが、12時のニュースに切り替わる。

「外、寒かったんとちゃうん?」
「ううん、意外と日なたは暖かかったよ。お散歩日和だった」
でも2時間は歩きすぎたなぁ、と言い、わたしはソファに身体を投げ出した。待ってましたとばかりに眠気が襲い掛かってくる。


「散歩慣れしてないから、ペース配分とかわからず歩きまくっちゃって……」
「疲れてるなら昼寝したら? 昼ご飯はこれあるからしばらくええで」
「うん。ありがと。遊弥が前言ってた、歩いているうちに『無』になるっていうのは、なんとなく分かったよ」
「……俺、そんなこと言ってたっけ」

わたしはまどろみながら、大判焼き(もとい、回転焼き)をほおばり、カフェオレを飲んでいる夫の顔を眺めていた。

食べ物の好みがバラバラだろうが、同じ食卓で違うものを食べていようが、この人が他人になることはないだろう、と思いながら、わたしは睡魔に身を委ねた。

ーー
作者は「御座候または大判焼き地域の生まれだが今川焼きと呼んでいる」人間です(?)(とらつぐみ・鵺)