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魚の目かもしれない/「推し」という概念が怖い(日記)


こんにちは。とらつぐみです。

先週はやっと小説を更新できました。謎の体調不良から復活しましたが、最近朝晩が冷えるのに昼間は暑いよくわからん気候なのでまだ体調には注意ですね。

今週は色々考えていたんですが何も思いつかなかったので(正直)また日記です。


魚の目かもしれない


先週は、足の謎の痛みに振り回されていました。

ちょっと前から、「靴を履くと足が痛いなあ、靴が合ってないのかなあ」と思っていたのですが、今週の金曜の朝、起きたら(靴下さえ履いてないのに)足が痛いことに気づきました。

痛いなあと思いつつそのまま仕事に行き、無理して歩いたのがたたったのか、足を引きずってしまうほど痛くなりました。その日はいつもなら駅から家まで徒歩で帰るところ、バスで帰宅しました(勿体ない……)

なんとか帰宅し、足を触って調べてみると、親指の付け根、歩くときに地面につく箇所が少し硬くなっていて、押すと針が刺さったみたいな痛みがありました。


これはひょっとして、魚の目ってやつ?

↓魚の目とたこについて詳しいページ。特に治療してないけどたこも足にできてる。

押すとそこだけ痛い、という症状は魚の目っぽいのですが、皮膚の表面がリンク先の写真のように黄色くカチカチになっているかというとそこまででもありません。(足の裏の写真を撮るのは嫌なので載せませんが)ぱっと見は割と普通の皮膚です。

魚の目の治療薬のパッケージには「表皮を剥がして芯を取り除く」という恐ろしげなことが書いていますが、私の足はそもそもそれができる段階ではなさそうです。

(実際、押すと痛む箇所に貼ってみるとふやけましたが、表皮は剥がれなさそうなので貼るのは一旦やめました)


魚の目治療薬「イボコロリ」のパッケージ。④の図解怖すぎる。


あと、一番痛い時は「裸足でいても痛い、足指を伸ばしても縮めても痛い」という状況でしたが、どうやらそれは、魚の目(?)を庇って変な歩き方をしたせいで足指周りの筋肉が痛んでいたみたいです。踏んだり蹴ったり。

今は「歩くとちょっと気になるな」くらいになったのですが(筋肉痛は湿布を貼ったら治った)、とりあえず、硬い革靴や尖った靴はやめて、筋肉痛にならないよう歩き方に気をつけて様子見かなという感じです。

足が痛くなったことで、「苦痛を感じずちゃんと歩ける」ということのありがたみが身に沁みました。趣味が野鳥観察と散歩と美術館巡りなので、足が痛いと精神的な『死』が訪れます。

あと車がないと(生きていけないほどではないけど)微妙に不便な地域に住んでいるので、徒歩移動がしんどいのは苦痛です。アスファルトの割れ目とか点字ブロックとか、路上にある僅かな凸凹でも魚の目に刺さった日には『死』です。

これからは足をもうちょっと大事にしようと思います。あとサイズがちゃんと合ってて痛くない靴を買わないと……

「推し」という言葉が怖い


魚の目の話だけで1000字以上書いてしまいました。それくらい今週は足の痛みに思考が支配されていました。

他に書くことがあるとすれば、博物館の野鳥に関する企画展が始まって、週1のペースで行ったことくらいでしょうか(行き過ぎ)

博物館ってこんなに鳥の標本あるんだ……と驚くほど鳥の剥製や骨格標本が展示室に集まっていました。
翼や足の構造の詳しい解説もあり、資料に使えそうな写真もめっちゃ撮りました(SNSアップはダメそうなので展示の写真はなし)。

例えば魚を食べる猛禽類のミサゴの標本。足をよく見るとイボイボがたくさんついていて、それが魚をがっちり捕まえる滑り止めになっているそうです。野鳥観察をしていてもそんな細部までは見えないので、すごく勉強になりました。


これは躍動感のあるミサゴの写真。魚をがっちり足で掴んでいる。


その博物館の展示の最後、展示のアンケートが置いてあるところに「あなたの推しの鳥は?」というコーナーがありました。ポストイットとペンが置いてあり、来館した人が思い思いの鳥の名前を描き、ボードに貼っていました。


私も書いてきたのですが、「推しの鳥は?」と聞かれると答えに窮してしまいます。

好きな鳥が一種類に絞れない、という理由も、まああります。
「思い入れの深い鳥は?」と聞かれれば、バードウォッチングを始めるきっかけになったツグミですが、「かわいいと思う/ついグッズを買ってしまう鳥は?」と言われれば、シマエナガ、またはキーウィ、「水辺で見たらテンションが上がる鳥」はシロチドリです。

↑バードウォッチングを始めた頃の話はこちらを読んでね。

でもそれ以上に、ある鳥を「推し」だと言ってしまうことが、ある種の自己主張になってしまうのではと変に気にしてしまうからかもしれません。

ここ5年くらいの間で急に広まった「推し」という言葉、最初は本当に「BIG LOVE」くらいの意味で使っていたのに、単に「好き」以上の意味を含む、お化けみたいな言葉になりつつあるような気がします。


「BIG LOVE」という意味でいいのならツグミもシマエナガもキーウィもシロチドリもみんな「推し」です。みんな好き。

でも例えば、「グッズを大量に集めている」ことが基準なら、グッズがそもそも大量に出回っていて、数としても多いシマエナガが「推し」と呼ぶのに相応しいんでしょうか。


最近買ったシマエナガのポーチ。尻尾がチャックになって鳥だったらあり得ない位置まで上がるけどかわいい。


「会いに行った回数」なら近所で見られるツグミですが、「お金をかけて会いに行く(遠征)」という意味なら天王寺動物園まで毎回観に行くキーウィの方が「推し」感はあります。

また、野生でいるのを比較的容易に観察できるツグミ・シロチドリを推しだと言うのと、生息地が限られているため、写真やグッズを愛でるのがメインのシマエナガ・キーウィを推しだと言うのは、スタンスがかなり違います。

(あまり書くと対立を煽りそうなのでやめますが、「やっぱり鳥はフィールドで見ないと」と言いたいなら前者、二次元のキャラっぽく鳥を推すなら後者です)


いかにお金や時間を注ぎ込んでいるかとか、下手すると自分自身の価値観を反映しているものとして「推し」が語られ、消費されているのを見ていると、自分の好きなものを「推し」と言うのに抵抗が出てきているのに、最近気づきました。


無論、自分の価値観を変えてしまう衝撃的な出会いをした「推し」というのはいます。そこまで好きじゃないと思ってたけど、気づいたらそのキャラのことをずっと考えていた、みたいな存在もいます。


そこまでは行かなくても、自分が「好き」「いいな」と感じる存在のことを気軽に「推し」と言ってもいいんじゃないか、とは思います。でも、「好き」の度合いを自分自身の行動で測られたり、それがあなたのアイデンティティだ、と言われるとなんか違うな……と、最近ぼんやり思っています。


まあ別に、気にせず「推し ※BIG LOVEの意味」と言ってもいいと思うんですけどね。悪いのは「推し」という概念を使って射幸心を煽ったり、変に分断を生もうとする人間なので。推したちには全然罪はありません。

でも、自分が好きなものを言語化する時、「好き=アイデンティティ」みたいな考え方が広まっていて、気軽に語るのは難しいなと感じることが多々あります。好きなものが自分を形作るなら、鳥と妖怪が好きな人間って一体なんですかね?鳥の妖怪?

※ペンネームの「鵺」はとらつぐみという鳥の異称で、妖怪の名前になってることからつけたので、あながち間違ってはいない。


と、そんなくだらないことを書いていたら深夜になってしまったので、今日はこの辺で。また妖怪が出てくる小説が書きたいですね。

それでは、またどこかで。

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靴を買いに行きたいけど靴を売っている店が近くにないので買いに行くだけで足が痛くなりそう(とらつぐみ・鵺)