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下の名前

最近、同級生がどんどん結婚していくようになった。

それもそうだろう。僕はもう25歳で、あと1ヶ月もすれば26歳になる。こないだまで新社会人だと思っていたのに、あっという間にもう中堅社員くらいの年になってしまった。

友人の祝いの門出は誰から聞いても嬉しかった。まだ何処か遠くに見えていたはずのものが、気づけばもう目の前にあってもおかしくないことに気がついた。

羨ましいとは思うけれど、不思議と焦りは出てこなかった。もともとそういう性格だし、何より純粋に仲のいい友達が幸せな瞬間を迎えることが嬉しかったのだと思う。

きっと僕の大切な人たちは、これからどんどん彼ら彼女らにとって他の大切な人たちを増やしていくのだろう。それは僕の友達だけではなくて、きっと僕自身も。

ホームシックにはならなかったが、ときどき昔の写真を見返す。なんというかこれは僕のくせみたいなもので、特に深い考えがあるわけではないが自ずと手が動く。掃除している時に出てきた古いアルバムを見返すように、google photoのアイコンをタップして積み重ねた年月分を下へ下へとスクロールする。

過去に戻りたいわけではない。と言ったら嘘になるのかもしれない。ただ、社会人になってから気心の知れた友人がそばにいる環境というのは、今後の人生でそれほど多くないことに気がつくのにさほど時間はかからなかった。

下の名前で僕を呼ぶのは、社会人になる前にできた友達しかいない。Bluetoothの機器登録ですら自分の苗字をつけるようになった。会社の名前を自分の苗字の前につけて紹介することが増えた。結婚した僕の友達は、これからきっと●●さんの奥さん、旦那さん、●●くんママ、パパ、と呼ばれていくのだろう。苗字で。

自分は誰のものでもないと思っていたあの頃が羨ましいと思うときもある。ただ戻りたいとは思わない。今と昔ではできることも倍くらい違う。苦しいことだってたくさん乗り越えてきた。ただ、羨ましいと思うだけ。結婚した友達に心から祝福を送り、何か少し眩しいものを見つめて目を細めるように。取り出した古いアルバムからお気に入りの写真を見つけて頬を綻ばせるように。

もうこちらにきてから半年近くが経つ。いつ帰ってくるの?病気しないでね、無事に帰ってきてね…と、僕の大切な人たちはいつも優しく声をかけてくれる。僕も、同じように誰かに声をかけている。

たいせつなものは同時にたくさん抱えられないから、いつかそんなやり取りもなくなってしまうのかも知れない。家族ができて、子どもができて、仕事が忙しくなって、会える機会も少なくなる日がくるのかも知れない。

まだ少ない社会人経験が教えてくれたのは、僕を下の名前で呼んでくれる友達はきっともう、できないということ。株式会社●●の熊谷さん、●●さんの夫の熊谷さん、●●くんパパ、そんなふうに、何かにくっついて呼ばれ続けるのだろう。それが社会人というものだ。

だからと言って何か変わるわけでもない。別に下の名前で読んでくれていたって疎遠な友達もいるし、苗字で呼んでくれていて仲のいい友達もいる。だけれど、いろいろ背負っていくものとは無関係に、平等に、僕の名前を呼んでくれる友人はもうきっと、できない。

だからせめて、今手元に残るものを大切にしたいと思う。僕を、僕だけに与えられた名前で呼んでくれる誰かを。

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