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お年玉

お正月、帰省をした。

思えば、実家で正月を迎えるのは3年ぶりだった。3年前はヒッチハイク中で、南フランスの小さな町で年越しをしたし、2年前はケニアで年越し、そして去年は静岡で新年を迎えた。

年内で追われなかった仕事を心の奥に押し込んで、僕は東京行きの飛行機と、仙台行きの新幹線に乗り込んだ。和歌山遠しと言えども、大体3時間もあればあれほど離れていてもついてしまうのが驚きだった。

お正月、もう学生ではなくなった僕はまだ学生の妹と、いとこと、ばあちゃんとじいちゃんと、父母にお年玉を渡した。

思えば、小さい頃は12月末〜1月あたまにかけてが楽しみだった。クリスマスやらお正月やらイベントが目白押しだし、お年玉は貧乏学生の懐を温める楽しみの一つだった。ただ、なんとなく貰うのも申し訳ない気がして、おずおず「ありがとう」と、親戚一同に言っていたっけ。ポチ袋にそれぞれ名前をかいていて、最後にもらった3年前のことを少し思い出した。

「孫からお年玉をもらう日が来るなんてねえ」と、おばあちゃんはしみじみしたような声で言っていた。僕も、まさかいつももらっていた人たちにお返しする日がこんなにも早く来るなんて思っていなかった。意外と悪くないな、とも。

年末を子どものときのように胸を踊らせて待つ自分はどうやらいなくなってしまったらしい。過ぎていく時間に色づいていた日々は、働きだしてからだんだんとモノクロになっていっている気がしている。親戚一堂で会して夜遅くまで話すのは好きだし、地元の友だちと久しぶりに会えるのも嬉しい。ただ、言いようのないワクワクに包まれていた1月1日はもう戻ってこないとどこかで気づいてしまったようだった。

母さんにお年玉を渡した。「いつも、お金あげるだけだからなんか損だなって毎年思ってたの。」母さんはそんなことを言っていた。僕に見えていなかったお正月は、きっとそんなものだったのだろう。ポチ袋の中に入れたのはここまで育ててくれたお礼と、彼らだってきっと失ったであろう特別な日の彩りだった。

おとなになったなあ。

この間、上期の評価面談で少しだけれど昇給をもらった。夜遅くまで毎日頑張った甲斐があってのものだったのか、自分が成長している実感なんて全く無いけれど、少しは伸びているのかななんて思って、「期待しています」の言葉が少し嬉しかった。もっと頑張ろうと思った。

12月から1月の間は大学の友だちと遊んだり、電話したりする時間が多かった。新卒として社会に放り出された僕らは、大なり小なり会社に対する不満を言っていつも盛り上がっていた。ふと気づいたのは、僕はほとんどそういう不満を抱えていないということだった。

今の仕事はキツイけれど、楽しいと思える部分はあるし、やりがいだってある。やっと少しはまともに評価されるようになってきた。頑張ろうと思える。ただ、大学の友だちと久しぶりに会ったり、話たりするとそれがなんだか悲しくなる。なんだか、どこの国にいるよりもすごく遠いところまで来てしまった気がして。

寝る前にいつもバイリンガルニュースという日英で配信しているpodcastをよく聞く。youtubeで気づくと、世界史とか、地理とか、大学のときに勉強していた話題をよく見る。

ここ最近、仕事のために買う本がどっと増えた。学生のときに買った国際協力系の本が読みかけのままで、本棚の隅にぽつんと、置かれている。

おとなになったなあ。もう、学生じゃないんだ。

いつのまにか追いかけているのは自分の興味ではなくて、数字になっていた。それだってきっと悪いことじゃない。それを楽しいと思えることだってある。だけど、どこか寂しいのはなんでだろうか。どこかになにか置き忘れた気分になってしまうのはなんでだろうか。

今年は社会人2年目になる。去年より淡白に過ぎていくであろう毎日に、僕は何を感じるのだろう。「いつも、お金あげるだけだからなんか損だなって毎年思ってたの。」母さんが言っていた言葉を思い出す。楽しみにしていたお正月はもうどこかへ行ってしまった。同じ時間はもう帰っては来ない。

けれど、「ありがとうね。大事に使うね。」と母さんが僕に言ってくれたとき、暖かい色が僕の中に広がった。子どもも大人も、きっとどっちも悪いものじゃない。変わっていくことは悪いことじゃない。ただ、まだそれになれていなくて悲しく感じてしまうだけなのだと思う。きっと。

どうしようもなく時間は過ぎて、また来年、お年玉を僕は手渡しているのだろう。そのときには、少しでもいいから優しい色のついた1月1日になっていてほしい。

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