見出し画像

無自覚な差別

旅をしていると「Where are you from?(どこから来たの?)」という質問は日常茶飯事である。

「日本出身」と答えると、ありがたいことに日本に対して好印象を持ってくれている人も多く、「日本人、大好きなんだよね!」と言葉をいただくこともしょっちゅうだ。

相手は好意を持ってこれを言ってくれていることはわかる。けれど、私はどうしても嫌な気持ちになってしまう。それは「〇〇人は嫌い」という差別的な思考と同じだから。

無自覚な差別者

「日本人、大好きなんだよね!」と言えてしまう人は、自分が差別を撒き散らしているとは露程にも思っていないだろう。

私がこの文章を通じて伝えたいのは、

人類みな差別者だということだ。

この「人類みな」には、私もこの文章を読んでいるあなたも含まれる。

「いや、私は差別なんてしていないぞ」とムッとした人もいるかもしれない。けれど、この話はそんな人にこそ聞いてほしい。

私ももちろん、自分が差別しているとは思っていなかった。正義の名の下に、差別する人を積極的に批判していた。

そんな自分がそのひとりだと認めたのは、以下のツイートをしたことがきっかけだった。

子供の頃、顔の濃い私は日焼けすると「フィリピン人」とからかわれた。あの頃は考えたことがなかったけれど、どうして「フィリピン人」はからかいのセリフに成り得るのだろうか?

私たちは自分が属している環境からたくさんのバイアスを受け取る。「おい、フィリピン人」と声をかけてきたあの子たちは、別に悪意があってそう呼んだわけではないだろう。

みんながそう言うから、テレビでそういうイジリを見たから、たったそれだけだったのかもしれない。

けれど、その言葉たちは私の深層心理にどんどん刷り込まれていく。そしていつしか「フィリピン人は自分たちより下」という偏見を生み出す。この偏見が差別的態度に変ずることは容易だ。

私はこのツイートを通して「お前たちにそんな意図は無いかもしれないが、これは立派な差別だぞ」と批判したかった。

しかし、この後に続くツイートを打って、自分もその1人であることに気がついた。

「インド人っぽい」も申し訳なさそうに言われたんだけど、私的には「濃い顔でかっこいいやん!」と思ったよ。

フィリピン人とかインド人とか、申し訳なさそうに言われる国籍の人に対してフォローアップしたくて打った言葉だった。

私はこの文を”良いこと”だと思って打った。

しかし、これをいち早く見た彼氏が「これはイカン、お前もレイシストだと言われる前に消したほうが身のためやで」とアドバイスを投げてきた。

これを批判と受け取った私は、「私のどこがレイシストだ」と怒った。

彼の言い分はこうだった。

フィリピン人とかインド人とか、そう言ったイメージで物事を捉えて、良い・悪いを判断していることが、レイシストと同じ。何かを良いと言うことは、何かを悪いということ。

区別と差別というボーダーラインは、"差別"を明確にする。

区別は、リンゴを赤いリンゴと青いリンゴに色でグループ分けすること。差別は、その分けたうえで、赤リンゴの方が格上、青リンゴの方が格下と「差」をつけることを言う。

つまり、物事に差をつける"差別"には、ポジティブな差別とネガティブな差別の2側面がある。これはコインの表裏のように表裏一体だ。

何かを下だとするネガティブな差別は、その行為によって冷遇を受けるものが生じるケースの多さから「払拭すべき悪い差別だ」と認識されやすい。

対して、何かを上だとするポジティブな差別は、ポジティブな内容がゆえに、差別だと認識されにくく、見過ごされやすい。

良い悪いというのは、相対的な価値観だ。「Aが良い」ということは「AじゃないXは(Aと比べて)良くない」ということになる。

私の発言の「(インド人)は濃い顔でかっこいい」はポジティブな発言だったが、つまるところ「顔の濃くないインド人はダメなのか?」という問題になる。

冒頭を回収すると、「日本人、大好きなんだよね!」も同様だ。日本人が大好きということは「どこかの〇〇人は好きじゃない」ということ。

「大好き」とまで言うのだから、次に「〇〇人は嫌いなんだよね」と思考が動いてもおかしくはない。事実、その後に「中国人は嫌いなんだ」という話を続ける人も多い。

私は、日本人・インド人・フィリピン人・スペイン人を"区別"したつもりだった。そこに優劣はないと言いたかった。けれど、私の思考は「インド人は顔が濃いもの」という頭の中のステレオタイプで良い・悪いを判断する、差別的思考そのものだったのだ。

ポジティブな差別はその相対的な立ち位置から、違う視点から見るとすぐにネガティブな差別に入れ交わる。

私が示した差別は、もしかしたらどこかの誰かを傷つけるかもしれない。私が無意識の差別と批判した、フィリピン人を卑下した者たちのように。

(後に、自分も差別をしていると納得した私は、インド人の部分は削除した)

人類みな差別者

画像1

私たちは、物事を区別することによって世界を認識する。この線から下が海で上が空、これは赤でこれは青、これは犬でこれは猫。

これと同時に行われるのが、概念の形成だ。これは赤くて、丸くて、少し酸味がってて、シャリシャリしてるから「リンゴ」と、それぞれの特徴を与えながら自分の中でカテゴライズしていく。

そして、その概念は他者とのコミュニケーションを通して、ステレオタイプ化されていく。「リンゴ」と言えば、あの赤くて、丸くて、少し酸味がってて、シャリシャリしてるフルーツね、と暗黙の内に了解が得られる。

私たちはこのステレオタイプを共有しているからこそ、こんなにもスムーズにコミュニケーションが取れるのだ。

しかし、私たちは自分が属している環境からたくさんのバイアスを受け取っており、ステレオタイプもその影響を強く受ける。そして、その環境下で偏ったステレオタイプは、偏見と呼ばれる。

また、私たちは上下・左右・善悪・好き嫌いなどの物差しをステレオタイプに当てはめる傾向がある。白は上で、黒は下。赤は良くて、青は悪い。黄色は好きで、紫は嫌い。

こう考えれば、世界はとてもシンプルでわかりやすい。これが差別の起源だ。

物事を区別のレベルで留めておくことは、とても難しい。なぜなら、世界は多様でたくさんの人と共有しなければいけなくて、私たちの頭は自然とステレオタイプと物差しを求めてしまうから。

区別というニュートラルな認識ができない限り、認識したグループ間での「差」の発生は免れれない。私たちはみな、胸の中に"差別"をたくさん抱えて生きている。

その”差別”を抱えていない人間など、ひとりもいない。そしてその”差別”を自分の外に漏らすことのない人もいない。人類はみな、差別者だ。*

差別との付き合い方

画像2

しかし、私たちは決して誰かを傷つけてやろうと思っているわけではない。けれど、無意識のうちに傷つけるということは十二分に起こり得る。

また、私たちは知らず知らずのうちに、偏見で頭が硬くなってしまう。そうすると視界が狭くなって、私は世界をつまらなく感じてしまう。

最後に、差別で人を傷つけないために&思考を縛られないために、私が気をつけていることをシェアする。

①自分が差別していることを認める

前述の通り、自分の内に差別を抱えていない人間など、ひとりもいない。*

「差別」と聞くと、何かとてつもなく悪いものという印象を受けるかもしれないが、みんな普通に持ってる思考なのだ。

それを絶対に自分には無いと思い込んでいると、無意識のうちに出てしまう差別的態度を防げないし、偏見の洗脳はどんどん進んでいく。

だから、まずは自分の中に差別的思考があることをしっかりと認める。

一般化せず、自分の経験を話す

「〇〇は△△だ」と断言してしまった方が、物事はシンプルでわかりやすい。そして、その明確さは、他者と何かを共有するとき大きなパワーになる。しかし、それが偏見である可能性は非常に高い。

口にするほど、耳にするほど、思考はだんだん自分に馴染んでいく。偏見にすぎなかったものも、まるで事実かのように思えてくる。

だから「これは自分の偏見なんだ」と思いを込めて、「〇〇は〜」という表現を避けて、自分の経験に落とし込んで話すように努めている。

例えば、「ロシア人はウォッカばっかり飲んでた」ではなく、「シベリア鉄道で一緒になったサシャがさ、自家製のウォッカ持ち込んでてさ、車両のロシア人みんなで三日三晩飲み明かしてさ〜」みたいな感じだ。

実践してみると、結局会話の内容は個人から発するものだから、「〇〇は〜」と物事を一般化して話す必要があまりないということに気がついた。あと、個人的な話の方が面白い。

③大きな主語で言い切らない

ただ、どうしても一般化した大きな主語を使いたいときもある。「日本での働き方」のような一般的なトピックで話しているときは、「日本人は〜だ」と言いたくなる気持ちにもなる。

けれど、ここでも「日本人全員が当てはまるわけじゃないんだ」と自戒を込めて、「日本人には〇〇な人も多いと感じる」と最後にぼやかしてみたり、「〇〇と思うよ。私はね!」とあくまで私の偏見だと自分にも相手にも注釈を頑張って入れる。

細かいなとは思うものの、人は簡単に偏見に流されてしまうので、重要な防衛策だと思う。

以上、例文には私に馴染みの深い国籍話を使ったが、なんに対してでも「これは偏見だぞ」という姿勢を貫いていれば、偏ったイメージに思考を縛られず、できるだけ"区別"というニュートラルな状態へ自分を持っていける、と思う。

ぜひ試してみてほしい。

あとがき

「あなたも差別してるんだぞ」という、少し挑発的なスタートだったが、私もその1人だったこと・気がついた恥ずかしい経験をシェアして、ひとりでも多くの人に「なるほどな」と思ってもらえたら嬉しい。

あと、差別を平気でまき散らかせる人には「自分が絶対に正しい」と思い込んでいる人が多いように感じる。そういう人との会話はカチコチに固まった偏見ばかりで、すごくつまらない。そして、そういう人ばかりだと、世界は退屈だ、と私は個人的に思っている。

なので、この記事がその人の絶対的価値観を壊して、もっと面白い世界になればいいなと願っている。

補足*

 「大きな主語で言い切らない」と言っているそば、「人類みな差別者だ」というのはかなり矛盾だし、言葉が足りないかとも思ったので補足させてほしい。
 

 私がここで言う「差別」というのは、前述したように、差をつけて扱う「思考」という意味だ。一般的に悪徳な行為だと批難される『差別』というニュアンスで解釈した人には、私は差別なんてしていないと反感を抱いた人もいるかもしれないが、私はその『差別』については差別的態度・差別的行動としている。より多くの人に読み進めてほしかったので、差別という言葉の多義性はあえて明言せず書き通した。このせいで混乱した人がいたら申し訳ない。

「差別」は所詮「思考」なのだから、それ自体を持っていて他人にどうこう言われるものではない。それを態度や行動として自分の外に出したとき、それは「差別はだめだ!」と批難される対象になりうる、と私は考えている。「差別」は悪いものではないという視点を持って読むと、結構すんなり言いたいことが理解してもらえるかなと思う。そういう"違う視点"について考えてほしいなという意図もあって、この文章を書きました。
 

 さて、人類みな差別者だと言い切るなら、「差別」を抱いていない人類はひとりもいないということになるが、これは如何にして証明できるだろうか?と考えたところ、実はみんなじゃないなと思い至った(え)
 

差別は偏見に基づく。偏見は概念・区別の形成なくしては生まれえない。となると、概念を持たない生まれたての赤ん坊には差別的思考はないはずだ。自分の体験では覚えていないけれど、生まれてすぐの赤ん坊には世界は繋がって見えるという。お母さんも、天井も、自分の手も、布団も、自分も(?)ひとつなぎのように感じるらしい。そのような状態では差別も何もない。
 

なので、人類みな差別者は過言だった。過言だと知りつつ、読んでほしいという欲望から書いてしまった。ごめんなさい!許して!
 

 しかし、赤ちゃん以外のすでに区別やら概念やらの形成を経た大人に「差別」を抱えない、すべてのものに対して「区別」というパーフェクトなニュートラル状態を保っている人がいるかと聞かれたら、私は想像できない。私の敬愛するお釈迦様だって、ダライ・ラマだって、明仁上皇だって「差別」という思考を持ってない・持ってなかったとは想像できない。なので想像できた人は、ぜひ教えてください。
 

あと、大麻とかでトリップすると、自分と他者(ここでは人以外のものを含む)の区別が曖昧になり、赤ちゃんのときのようにすべてが一体のように感じたというのを体験者から聞いたのだけど、これをトリップせずに日常的にできれば「赤ちゃん以外の人類みな」という言い切りは嘘になる。そんなのが可能なのかって話だけど、まあこれは「差別」というトピックからかなりずれているので、また今度。

支援していただいたお金は次の旅費に使わせていただきます!