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『平成の終わり』に想いを馳せ、ただ盛り上がるだけにどんな意味があるのか?

最近ミレニアルズの間では、、
『平成の終わりについて』で凄く盛り上がってるみたいですが、僕はその盛り上がりの相反するところにある種の危険性を感じています。

確かに、「平成に想いを馳せる」というのは、過去何百年の間、年号に想いを馳せることができた年ってほとんどないからこそ、めちゃめちゃおもろいことだとは思う。

死ぬほどエモい。

人間は、「終わり」「足りなさ」などにより深い感情を持つことができる動物だ。

今回の、「平成最後の夏」というのもそうだし、「一年が始まってすぐなのに、残り何百日になりました」と考えたりするというのも近い。

そういう事象を目の前にすると、人はその想いを何かに残したくなる。

例えば、
『平成の終わりにみんなで平成に想いを馳せるイベントをやろう!!』
『平成の終わりだし、最高にエモくみんなで花火を打ち上げよう!!』
とか、、、

確かに幸せで、すごくすてきだ。

しかし、僕はこの事象をこう捉えることもできるのではないかと思う。

『「平成に想いを馳せる」というのは、ただ多くの人に共感されやすい可能性が高いだけであって、メディアでしかないのではないか。』ということだ。

メディアにとって最も重要なのは、そのメディアに、『誰がどんな想いを乗せるか。』だ。

この「平成の終わりはエモい」という文脈を利用して、どんな未来を実現するのか。どんな意味をそこに見いだすのかが最も重要だと思う。
ただ平成に想いを馳せるだけなら、別にあなたがやらなくても良いのでは?と思ってしまう。

何度も言ってはいるが、僕の中でのクリエイターの定義は、『人がまだ価値だと認識していない事象を、価値があると本気で想い、その視点を誰か1人でも多くの人に共有することができる人』である。

だからこそ、『平成の終わり』にエモさを見出したクリエイターにはぜひ、メディアとしての平成の終わりを捉え、そこにどんな想いを乗せるのか?を熟考して欲しい。

例えば僕なら、「平成に想いを馳せる」ってある意味時間や思い出、歴史にエモくなることだと思うから、『平成に想いを馳せるだけじゃなく、経過している一分一秒を大切に生きようよ。』『一秒一秒をエモく感じて生きようよ。』という想いを可視化できるようにメディアとしての「平成の終わり」を利用して行きたい。

平成の終わりに花火やるのって最高だなあ、、、
幸せだなあ、、、
エモいなあ、、、

って感じてたらなんとなくいつの間にか、『でもやっぱ今この一瞬一瞬を生きることが一番大事なんや。』『時間って儚いんだ』と感じる機会にしたい。

もちろん結果論ではある。

あともう一個。
過去に想いを馳せるというのは、それを糧に今を生きることだから、やっぱり多くの人の過去への執着ではなくて、『未来への想いが集まる場』になると最高だよなと思う。

ただエモくなれる、馴れ合いだけの空間というのは、本当に価値がない。というより持続可能な形ではない。

まだ具体的にどんなことができるかは見えてはいないが、僕なりのメディアとしての平成の終わりを利用した、想いの可視化はしてみようと思う。

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