捨てちまえ!

先日の日曜、地元に帰った。なんと十三年ぶりである。
近付きたくなかったというか、怯えていたというか、僕にとっては開けたくないパンドラの箱であった。何故このタイミングで開けたのかは自分でも分からない。

レンタカーで一人グルグルと回ることにした。

通っていた学校、付き合っていた女の子の実家、嫌いだった同級生の実家の前まで行く。
自分が大きくなったのか、対象物が縮んだのかは分からないが、すべてがやたら小さく感じた。そしてそれらはあの日のまま、老朽化していた。実家はこれまた見るも無残に荒れ果てており、ほとんどスラムに見えた。
人口の減少が激しいせいか町全体が荒廃しているように感じた。

それにしても幼少や少年期を思い出すと、楽しかった記憶がほとんど無い。
脳の中の幸せを感じる部分は先天的なものらしいが、それが生まれつき低いのかもしれない。しかし、ひいき目に見てもキツかったように感じる。

子どもはみんなそうなのだが、不自由かつ、枠にはめられて暮らしている。
住まい、同居人、職業、時間の過ごし方の選択権は強奪されているからだ。

選ぶ権利無く庇護のもとに置かれる屈辱的な日々だったと思わないだろうか。守られていることに喜びを感じるようになったら、男としては一旦終わりである。

振り返ると、もはや収監されていたようにさえ感じる。

一人暮らしを始めたばかりの頃、栄養失調で倒れるほど貧乏だったが、自由と責任を手にした幸福は何物にも代え難かった。保護されながら生き長らえるならば、大手を振って死んでいきたいものだ。

「大人になる」というのは本当に良い。金銭や身を売ることで社会に対して責任を取れるからだ。責任さえ払えば自由が手に入る。

極論、犯罪を犯してもいいし、自殺してもいいのだ。犯罪は責任を取れるようにちゃんと司法が罰則を用意してくれているし、自殺すれば「生命の喪失」を自らが負う。

だけど子どもはそれすらも許されないように出来ている。
物を盗めば「責任能力が無い」という理由で裁いてさえくれないし、自殺する子どもは遺書に「お父さんお母さん、ごめんなさい」とばかり書いている。死ぬことさえも、自ら一人の責任にできないなんて哀しすぎる。

つまり、すべての子どもが絶望しているように、やはり僕もそうだったのだ。

「子どもだし無力だったから仕方ない」と言えばそれまでなのだが、地元を歩くと「もっと早く抜け出せたではないか」という想いばかりよぎった。
あちこちの風景を見ると、幼い自分の苦しみが蘇るようだった。

「こんなに小さい世界だったのか」と思ったのだ。あんなにも全てだったのに皮肉なものである。

十二歳ぐらいで失踪して、東京か大阪にでも行っていれば、もっと有意義な十代だったに違いない。

抜け出せない、辞めれない、別れられない、解散できない、捨てられない。と思っていることはすべて思い込みである。
あの日のトラウマや苦い記憶も、取るに足らない話だった。

自分を縛り付けているものを捨ててしまうと、本当にスッキリする。ほとんどのひとの苦しみの根源的原因は「持ちすぎ」なのだ。
過去の失敗で、前に踏み出せないことが年齢と共に増えてくる。だけど「過去の失敗」自体が今の自分から観測すると、ザコい案件だったりする。

復活したシリカに再会した分、余計だった。あれをやるために、いったいどれだけのものを捨てる覚悟で臨んだのか。

捨てる覚悟があると、不思議と多くのものを取り戻せたりするのもまた真理だ。


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