どれい

失う練習

練習やトレーニング、修練に勉強。言葉としての表現は違うけど、同質のものだ。

何かしらをやっていないひとはいない。
仕事も学校もゲームも修練とカウントするとそうだし、広意義にすればファッションや食事も同じだ。パワーアップだ。

みんな何かしら強くなろうとしている。

そして「パワーアップ」というと基本的に「得る練習」になる。

僕もだが、「より得るため」にアレコレの負荷をかけて、時間を投じて、知識を蓄えて、戦を選ぶわけだ。

しかし、真逆の「失う練習」をするのも大事だなぁと近頃思うのだ。

10代の自分に言うと意味不明!しか返ってこなさそうな考えだ。第三次成長期のせいで不安定なのだろうか。

「失う練習」の必要性に駆られるなんて思いもしなかった。しかし「失い方」や「失ったとき」の経験を積むとタフになるのはピンとこないだろうか。

人間をそれなりの時間やっていると、「失ってしまった」というシチュエーションが否応なく訪れる。

『保有効果』というのだが「得る喜び」と「失う悲しみ」では「失う悲しみ」の方がデカイらしい。

「あなたに100万円あげます」という迷惑詐欺メールよりも「20万円の請求があります」という架空詐欺メールの方が効果があるそうだ。

通販番組の返金保障制度なんかも保有効果を使ったビジネスモデルだ。「最悪、何も失わないよ」という保障は、人類の危機管理意識をビシビシと刺激してくる。

それぐらい人間は「所有しているもの」に高い価値を錯覚してしまうようにできているし、「現状を失う」というリスクを追いにくくできている。

だけど「喪失」に免疫をつけないと、新しい場所には当然たどり着けない。リスクをとらないと進めない。

そのパワーアップのために「失う練習」はある。というより僕たちは「喪失」を過大評価しすぎているのだ。「失くす」って確かにキツイことなんだけど、実際のキツさよりも肥大化してしまっている。

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