理屈!

学校の先生や両親、上司、先輩などが「人間はこうあるべきだ」、「人生はこう送るべきだ」という教訓を語ったとする。いや、語る。彼らはそういう生き物だし、目下に対しては僕自身そう振る舞っている。

しかしこれは理屈である。理屈は応用範囲が広いけど、極めて抽象的だ。それに比べると、「ダチが楽しそうなバンドをしている」、「見かけがいいアイドルがいる」などは結果を見せつけられている。極めて具体的だ。理屈ではない。

子どもや若者たちが魅せられるのはどうしたって後者だ。訳の分からん有象無象のおっさんである担任の言葉よりも、イチローさんの言葉により神戸の子どもたちは育まれた。

「今、こういうことをすれば来年には、将来には、こうなるよ」という人生の抽象的方針だ。しかしそんなものよりも目の前のケーキ、ドラッグ、女、酒、モラトリアムに手を出してしまうのが子どもだ。

結果は「方針」なんかよりいつだって具体的で魅力的で、常に心を揺さぶる。「何を言うかよりも、誰が言ったかが大事」というのはそういうことだ。

だけどこれら結果は落とし穴だらけでもある。イチローさんの言葉通りに生きようとしても、うまくはいかないし、絶え間なく続く退屈な日々の中ではスーパースターの言葉を活かせる場面はほとんど無い。
「情報」とだけ観測するならば、イチローさんの言葉も担任の言葉も等しく「情報」なのだ。少なくともひとつの「情報」としてはおっさんの言葉は機能している。結果を出していると、出していないの違いだけで、言ってることの価値は変わらないのだ。

では理屈を信じるには何が必要なのだろう。まずは経験だろうか。「去年、こういうことをして今現在、こうなりました」という成功体験をしないと、理屈の強さは味わえないからだ。理屈のシステムを実体感すると、価値観はズリッと動いたりする。

「失敗から学ぶ」ということもあるが、「小さな成功から学ぶ」というフローの方が順当だ。
「理屈を信じなかったためにミスった」が「失敗から学ぶ」にあたるのだが、誰しも失敗はつらいので出来ることなら避けたい。

社会は駆け引きに満ちている。

結局、目の前のケーキ、ドラッグ、女、酒、モラトリアムに手を出してしまうひとたちから搾取する構造で社会は出来ている。「搾取されないこと」、あるいは「搾取されていることに気付く自覚」を持つと、それだけでも道は歩きやすくなる。

「理屈」というのは人間最大の武器だ。理屈を作ることが知性である。
どうすればいいか考え続け、工夫を怠らないことで、自分が生きやすい道は整備されていく。

そして大切なのは他者の理屈ではなく、自分の理屈で動いていくことだったりする。
「誰にでも当てはまる」というのは物理、数学ぐらいだと思って間違いない。

個人を生かしたり、個人をダメにしたりする理屈は千差万別だ。ここに書いていることだって、あまり信じ込まない方がいい。「知る」ぐらいの距離感がベストなのだ。まぁこれもまた信じなくていいのだが。

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