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否定のできぬガレージで

「自分には何もない! 俺は何者でもない! 私の代わりはいくらでもいる!」
そんな抑鬱的な状態に陥ることを「アイデンティティ・クライシス」と呼ぶらしい。おそらくこれはアラサーの僕らのような世代が感じやすい傾向にあるのではないか。

若いうちは「今は平凡だけれど自分は特別で、いつか人生が変わる瞬間がくる」と夢に焦がれる。自分は何にだってなれるんだと。
しかし年を重ね、髭が濃くなっていくうちに、あるいはシワやシミが出ていくうちに、徐々に僕たちは気づき始める。「あれ?自分はもしかして普通なのではないか」と。そしてそんな自分を無理矢理肯定し、着たくもなかったスーツを着るようになるのが30代ではなかろうか。

「アイデンティティ・クライシス」になった人はどうなるかというと、まずは足掻く。何かをしようとする。自分が特別だということを無理にでも証明しようとする。僕で言うところの「海外生活」や「執筆」がそれにあたる。
勉強がそれほどできなかった僕は「芸術」という大義名分を盾に、親に無理を言って私立の芸術大学に行かせてもらった。芸大というだけで、勉強ができないことから目をそらせるからだ。

大阪の布団レンタル会社で働いていた僕は、ある瞬間、死ぬまでの人生が一通り見えてしまった。つまらない奥さんをもらい、可愛くない子供を育て、おっさんになっても職場で怒られ続ける未来だ。寒気がした。自分の人生はもっと特別でありたい。だから会社をやめてオーストラリアに来た。2019年の11月7日に入国だったからちょうど明日から4年目に突入ということになる。

しかし大事なことを僕は忘れていた。日本を出たからといって「特別」になれるわけではなかったのだ。これには驚いた。面白くないやつはどこへ行っても面白くないし、コミュ力が高いやつは英語が話せなくても世界中で友達には困らない。
「人生変わると聞いてビザ取ってはるばる来たんですけど〜」といった戯言は、いくら広い世界といえど許容されない。

オーストラリア生活の中で一時期、日本人ばかりが集まるシェアハウスに住んでいた。そこはまさにアイデンティティ・クライシスの巣窟であった。海外で集まるからこそ「自分は他の日本人とは違う」というある種の怨念のようなものが渦巻いていた。やたらとみんな大麻を吸いたがった。同年代の日本に住む友達は吸えないから、特別でありたかったのだろうか。

そこの住民たちは同時に、世界の陰謀について語りたがった。あたかも自分は世界の真実にたどりついてしまったかのように、饒舌に語っていた。それはルフィの父親、ドラゴンばりに。さぞすごい情報源があるのかと思いきや、底辺YouTuberから得ていた「真実」であった。それを見せられた時は苦笑いするしかなかった。

病んでしまっている人間もいた。その人は「あなたのことを愛しています」という言葉が永遠にリピートされる謎の音声をずっと聴いていた。僕は「聞くならイヤホンにしてな」と、やはり苦笑いで言った。

何より僕が苦しかったのはその家で月1開催される「発表会」だ。何をするのかと言うと、そこの住人含め、近所に住む日本人が集まってそれぞれ得意なことを発表するのだ。落語をする者がいたし、ラップをする者もいた。決してうまいとは言えない編集で、内輪ノリのVTRで盛り上がる一幕もあった。特にラッパーはすごかった。お金を取っていないし、正解はない分野とは言え、聞いているこっちが恥ずかしくなるようなものであった。僕以外の人間はどういう反応をするのだろうと思っていると、みんな口を揃えて「いいね」。いや、どこがや。ずっこけた。今思うに、みんな「存在の証明」が欲しかったのだ。

それの何が苦しかったのかというと、その家にあった否定してはいけない雰囲気だ。「おもしろくない!」とか「下手くそ!」とかは何があっても言ってはいけない。陰謀論についても「へえ!そうなんだ」という反応をしなければならない。「いや、ラップの中で歌詞の意味説明してもうてるやん!」なんかはもうご法度だ。おもしろくもないのにおもしろいと言わないといけない。うまくもないのに「味がある」と言わないといけない。

その正体は「俺たち特別だよな?」という同調圧力である。この雰囲気に染まってはいけないと危機感を持った僕は狂ったようにシナリオを書き上げフジテレビのコンクールに出した。自分くらいは「特別」でありたかったからだ。そうすると2000作品中のベスト50には入れた。よかった、僕は少し特別だったのだと安心した矢先、翌年の同コンクールでは1次選考で木っ端微塵にやられたから結局は僕も同じ穴の狢である。そして気づいた。アイデンティティ・クライシスの奥底にハマっていたのは何を隠そう僕自身だった。自分に劣等感があるから周りの人間もそういうふうに見えていたのだろう。精神状態としては非常に良くない。

自分の平凡さを肯定するのも、大人になるということなのかもしれない。しかしそれは同時に自分の成長を止める気もするから、僕はもうしばらく足掻くと思う。

さて、よくできた読者さんならもうお察しいただけるだろう。あなたがやることはただ一つ。コメント欄に「あなたは特別だ」と書くことだ。

サポートしていただいたお金を使って何かしら体験し、ここに書きたいと思います。