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成人式には行きたくなかった

先日成人式に参加してきました。
市長や教育委員会の偉い人たちのお話では心が動かされたし、同年代の人が夢に向かって頑張っているスピーチを聞いて自分も頑張ろうと思えました。でも、ほんの直前まで成人式には参加しないでおこうと思っていました。

トラウマと性格と

中1のとき、あることがきっかけで人間関係を築くことがトラウマになったことがあります。そのトラウマのきっかけとなった人たちと、顔を合わせる勇気がありませんでした。当時のリアルな感情はもう忘れたけど、古傷は痛むものです。成人式や同窓会に行けば、その人たちに会うかもしれない。それがしんどくて、成人式には参加しないでおこうと思っていました。

それに、もともと人と話すのにエネルギーを必要とする性格なので、相手が「久しぶりに会う友達」だったとしても、なかなか気乗りしませんでした。(もちろん会ったら会ったで楽しく喋るんですが…笑) しかも、参加の意思決定が遅れていた僕は、今さら一緒に行く友達を誘っても断られる未来が見えていました。1人で行くのは怖かったので、「だったら行かなくていいや」くらいに捉えていました。

成人の日が近づくにつれて、LINEグループでは同窓会の日程や参加者の調整が進められていきます。SNSには同窓会を楽しみにする友達の投稿も見られました。

でも僕は、そんな彼らの盛り上がりとは裏腹に、どこか冷めた目で見ていました。これは”彼ら”への、ささやかな抵抗だったような気がします。それにわざわざ高い交通費と感染リスクを背負ってまで、参加したいとは思えませんでした。

LINE

えーじゃあ○○(私のあだ名)こーへんの

成人式に参加しないつもりでいることを、それとなくLINEで友達たちに伝えると、こんな返信が返ってきました。

この返信を受け取ったのはバイト中。心が揺れました。彼は僕の不参加の意思を悲しんでくれているように思いました。そして、自分が求められているかもしれないと思うと、嬉しさを感じました。その瞬間「やっぱり成人式に参加しようかな」と初めて思うようになりました(なんて単純な人間なんだ…笑)。彼に求められて初めて、彼を求めるようになったのです。

受動的愛と能動的愛

これまでの人生で僕は、自分から「誰かを求めること」をしてこなかったなと思いました。求められて初めて、その人に応えようとしていました。僕を必要としていない人や僕に興味のない人に対しては、僕自身もまた、何の興味もありませんでした。これは愛に対して受け身であったと言えます。

今年1年、とある学生団体のプロジェクトリーダーを担いました。価値観や考え方、強みや弱みが全く異なる相手を受け入れて、どんな時も彼らに寄り添って彼らを愛そうと努めてきました。能動的な愛の大切さと喜びを、今までよりも少しだけ理解できたつもりでした。

でもこの成人式の件を通して、まだまだ自分は愛に対して受動的であることに気づきました。確かに、同じコミュニティに属しているのに「嫌いではないけどあまり興味がない」という人はまだまだ少なくないように思います。

自分の性格上、無理をしてまで色々な人に声をかけて、関係性を気付く必要はないのかなとも思います。でも、自分自身の「愛に対する受動的な態度」によって、周りの人たちに、「ちょっとした幸せ」を与えられる機会を自分の手で手放していたのかもしれないなと思いました。知らないうちに。

実は、今回の成人式、僕の小学校の幼なじみが1人「参加したくない」と言っていました。彼は結局参加しませんでした。

彼も僕と同じように、誰かのちょっとした声かけで参加しようと思えていたかもしれません。その「誰か」に僕はなれませんでした。(成人式に参加すること=正解、とは思っていないですが…)

成人式に参加するしないを巡って、「愛」について考察する自分がばかばかしく思えてきたので今日はこのへんで。



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