見出し画像

汝、星のごとく

久しぶりに小説というものを読んでみた。

2022年に出版されたこの作品は、2023年に数々の賞を受賞。40万部を超えるベストセラー作品となっている。

そんな情報を僕は知らなかった。

ただ、たまたま友達のインスタで流れてきて、「泣きそうになった」とコメントが添えられていたのが読むきっかけだった。

前々から小説にも手を伸ばしていく必要があるなと思っていた自分はいた。というのも、文章を書く者として、文章を自分の頭を整理するために使う者として、様々なタイプの文章や表現に触れておく必要があるなと思ったからだ。

普段、ビジネス書の類ばかり読んでいる僕は、気づいたらビジネス書のような文章を書くようになっている。というか、そのような文章にしか触れていないから、そういった文章しか書けない。

それはつまり、自分の頭の中にそのようなアンテナしか持っていないことを示していたりする。それは表現を狭め、自分の文章をチープにするものでしかない。

だから、僕は毛嫌いしていた小説に手を伸ばすことにした。

そもそも僕は本を読むことが好きな人間ではなかった。実用的にばかり考える僕は、それでもビジネス書など自己成長の為には「読まなければならない」という謎の危機感に駆られて、なんとか頑張って読んでいた。

今は昔ほど嫌いではないが、決して本を読むこと自体が好きなわけではない。シンプルに好奇心が強く興味が尽きないので、それを満たす為に読んでいるのもあるし、誇示的消費で、本を読んでいる自分が好きなのかもしれないし、それは自分でもわからない。

そもそも本が好きでない自分が本を読まなければならない焦燥感に駆られると、どうしてもビジネス書のような「なにか得られる」「何か学べる」といった自分の成長に繋がるかどうか、時間が無駄にならないかどうかにフォーカスして本を選んでしまう。

このような選び方では、インプットの多様性がなくなってしまうことに気づいた最近は、意識的に小説やら、読んだとてどんな意味があるのかわからない夏目漱石の『こころ』のような作品に手を伸ばしてみたりしている。


今回、凪良ゆうの『汝、星のごとく』を読んでみて、作品を鑑賞することの大切さと面白さを知ることができた。

以前読んだ稲田豊史の『映画を早送りで見る人たち』に「作品を鑑賞すること」と「コンテンツを消費すること」の違いが書かれていて、ハッとさせられたことを覚えている。(note『作品を鑑賞するのか、コンテンツを消費するのか。|かくいたくや』)

ここで、言葉の定義を明確にしておこう。 「鑑賞」は、その行為自体を目的とする。描かれているモチーフやテーマが崇高か否か、芸術性が高いか低いかは問題ではない。ただ作品に触れること、味わうこと、没頭すること。それそのものが独立的に喜び・悦びの大半を構成している場合、これを鑑賞と呼ぶことにする。
対する「消費」という行為には、別の実利的な目的が設定されている。映像作品で言うなら、「観たことで世の中の話題についていける」「他者とのコミュニケーションが捗る」の類いだ。

稲田豊史『映画を早送りで見る人たち』(光文社、2022年)

僕はこれまで、能動的にインプットをするか受動的にインプットをするかによって、作品の鑑賞とコンテンツの消費を分けていた。能動的にビジネス書を選び、インプットを行っている僕は「作品を鑑賞している」と思っていたのだ。

しかし、僕のインプットにはいつも“別の実利的な目的が設定”されている。つまりこれは「コンテンツの消費」であったのだ。

タイパやコスパを求める現代では、気づかぬうちにそうした価値観が潜在意識に埋め込まれてしまい、インプットに影響を与えてくるので、ここには意識的に抗っていかなければならないと僕は思った。

「コンテンツを消費」することが悪いわけではない。どちらかに偏りすぎることなく、バランスよくインプットをしていく必要があるのだ。


とはいえ、今回読んだ『汝、星のごとく』はただただ面白く、本にのめり込むようにして読んでしまった。

仕事中もはやく本が読みたくて家に帰りたかったし、本が好きではない僕が睡眠時間を削ってまで本を読んでしまうのは自分でも驚いた。

こんな感覚は、高校生時代の試験前に漫画『キングダム』を手にしてしまったとき以来で、小説の面白さに初めて気づけたように思う。

この高揚感を忘れず、大切にしながら、これからも本と付き合っていきたい。


かくいたくや
1999年生まれ。東京都出身。大学を中退後、プロ契約を目指し20歳で渡独。23歳でクラウドファンディングを行い110人から70万円以上の支援を集め挑戦するも、夢叶わず。現在はドイツの孤児院で働きながらプレーするサッカー選手。


文章の向上を目指し、書籍の購入や体験への投資に充てたいです。宜しくお願いします。