清算と満腹

晴れ。
今日も暑い。
しかし昨夜は非常に涼しかった。
いや、やっぱり普通に暑かったのだろうか。
暑かったと思う。
でも、エアコンなしで夜を過ごしている身からすれば、昨晩は涼夜だった。
扇風機と冷風機とアイス枕で非常に快適に過ごした。
快適過ぎて逆に夜更かししてしまったけれど。
今晩は暑そうである。
月が細い。

このnoteの習慣と趣旨をすっかりおろそかにしているので、最近の興味について書く。
最近の興味は、もっぱら死後の世界について。
といっても、別に暑さで死を身近に感じているわけではない。
もっとも感じる瞬間はないとは言えないが。
私は生きるために、というか、生きるということはどういうことか、を考えるために死について考えるので、これは今にはじまったことではない。
これまで生きてきた分だけ、死について思ってきた。
では、最近はどういうアプローチから死や、それを含む世界について考えているかというと、地上という小さな視座を離れる努力をしている。
この地球とその全地に渡る生命だけを見つめていても、見えてくるものは極めて少ない、と感じている。
やはり生命を考えるには、思いきって宇宙大の意識と死後の世界への関心を強める必要があるように思う。
輪廻というより、上昇、あるいは移行のプロセスとしての死。
私の内在的な死の感覚描写は、舞台の暗転そのもので、死の間際、舞台は一瞬間暗転し、次に一斉に照らし出される舞台の上では、いまだ元の主人公が同じ顔、同じ記憶、同じ肉体で舞台に立っている。
しかし舞台装置の様子は様変わりしていて、他の登場人物も内的な変化が、著しく外的変化として現れているように感じられる。
だが、彼らの姿形もまた、元あったものと寸分の狂いもない。
ゆえに死を経過したかどうかを感知するのは、即座には極めて難しい。
ただその後の物語の展開において、徐々にそこが死後の何らかの生命の世界ということに気づいていく。
さて、現世の死後もまた、同じように存在が持続するとすれば、その移行のプロセスには何らかの清算(裁き)が伴うように思われる。
それは、古典的なキリスト教世界や他の宗教観と何ら変わりない。
しかし、とにかくこのステレオタイプな思考の経緯は、私の潜在的意識にとっていまだ強力な吸引力を持っている。
この場合の「そのように考えてしまう」というのは、思考のクセや固定観念や文学的想像力の限界というよりも、「そのように考えてしまう」ことの中に漂うある種の肉薄の予感から逃れ得ないというふうである。
むろん、やはりそれをクセや固定観念と、荒々しく還元することは容易だが、その操作が確実に小さな"引っ掛かり"を残すのは目に見えている。
清算はあるのだ。
だとすれば、いかに生きるべきか。

とか書きながら宵の口を駅前のベンチで過ごしていたが、家に帰って友人が作ってくれた青椒肉絲をお腹いっぱい食べると、もう何も考えられなくなった。

「死ぬ気になれなきゃ食うしかない。食うならうまいほうがいい。」(映画『おくりびと』)

また明日。