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寡読・少読

「本を書くには読書が大切」的なことがよく言われる。

僕も日本語、英語合わせて、なんだかんだで10タイトルほど出しているけれど、(あ、スペイン語もあった)

僕くらい、本を読むのが遅い人間はいないんじゃないか?

遅さに関しては、途轍もなく自信がある。遅い。まー遅い。
遅いから、読書量も少ない方だろう。

困ったことに、
いろんな興味だけは余るほどあるから、

「数冊を並行して読みつつ、どれも読み終えていない」
ということもしばしばだ。

なぜ、こんなに本を読むのが遅いのか?

最近、その理由がわかった。

僕は書籍の言葉と頻繁に会話をしているのだ。

たとえば今、精読中の書、『熟達論(為末大氏)』に、こんな言葉があった。

「段階が違えばこのように正反対のアドバイスになる」

たとえば、この言葉に僕は反応してしまうのだ。

正反対のアドバイスになる・・・そういうこと、あるよな。段階が違う。うん、たしかにそうだ。今、これじゃない。とか、これをマスターしないと次にいけない、とかあるもんな。手術用のメスの正しいもち方ができないのに、手術の上手なテクニック学んでもな。

段階、以外にも正反対のアドバイスになるケース、ありそうだな。タイプ、戦略、状況、とらえ方、身体的特徴なんかも、そうかも知れないな。

とまあ、こんな会話が脳内で勝手に始まり、それをノートに書いたりするわけだ。

それだけ元の文章の文言が、圧倒的な試行錯誤によって練り上げられた末に形になったものだから、いろんな対話が生まれるわけだけど。

まだ「前書き」の段階でこれだから、いくらなんでも遅いにも程がある。
これだけ書とじっくり会話できることも、僕の特徴だと解釈して、「寡読・少読」を楽しんでいけたらと思います。

ただ「拝読させていただきました」と伝えられないのは、寡読・少読である僕の致命的な弱点だなぁ。

作品と会話して、自分とも会話をしていれば、読書量が少なくても
本は書ける、本を出せる、というモデルケースになれたらいいな、と淡い期待を抱きつつ、スピードアップや複数回の通読を含めて、いろんな読み方を試してみようと思います。

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