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反芻すべき言葉たち

「言葉を取り込むかどうか?」「言葉から何を構築するか?」

これって、今、すごく大切なリテラシーなんだと思う。

SNSで誹謗中傷にあったり、レビューで酷評されたり、そういうことが日常的になってしまって、

「目にしたくない言葉や情報」

が飛び込んでくることもあるけれど。

そこに書かれたデジタルの言葉をそのまま受け取ってしまうのは、やはり危険だと思うのだ。

たとえば「オマエなんかいなくなればいい」と書かれたとしても、結局はそれは、誰が言ってるのか、なんのために言ってるのか、そういった言葉の背景が大切で。

もしオレがいなければ、オマエは『オマエなんかいなくなればいい』とは書けなかったはずだ。

そういった背景を一切考慮せずに、ウイルスに感染した細胞がDNAを取り込むように「そのまんま」受け入れていたら、心がもたない。

ずっと支えてくれてる人、あるいは応援してくれてる人、機会や導きを与えてくれた人など、「本来耳を傾けるべき人の言葉」であれば、そんな形をとらないだろうし。

どこの誰だかよくわからない匿名人の「オマエなんかいなくなればいい」は、カタカナとひらがなの羅列なのだから、

とっととローマ字omaenante inakunarebaiiに変換してしまうか、

もし英語にするなら、

Get lost!
Get out of my sight!
Get out of my face!
Get out of my life!

のどれが適当なのだろうか?と考えて「英語の問題」にしちゃうほうが心の健康につながるというものだろう。

日々激流のようにWEB空間に言葉が溢れる時代になったけど、

「どんな言葉を取り込むか」

については自分で選ぶフィルターをもっているほうが絶対にいい。
そう思うんだ。

だって、僕たちにはこのような「反芻すべき言葉」がたくさんあるのだから。

生きる力を与えてくれる言葉たちで、心をいっぱいにしよう。
そして言葉に意味を与える自由を駆使しよう。
せっかく今日も生きているのだから。

追伸:強さの磨き方、は弱さの全肯定です。



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