石器時代の人間の弔意

あまりにも驚愕したことがあったので、久々にnoteをひらいた。

前もって断っておくが、私は政治的な話をするつもりは一切ない。まったくない。そして、私が多少なり知識があるのは後期旧石器時代から青銅器時代であるため、この文章に関して学術的に正しくないことがもしかしたら多分に含まれているかもしれないことをご留意いただきたい。

事の発端は、TL上に流れてきた

「ネアンデールタール人は人間ではありません。」

という一言である。
ネアンデールタール人が今の人間……………つまり、ホモ・サピエンスではない、ということに対しても全く異論はない。私が驚いたのは、その人がネアンデールタール人を「人間ではない」と断定する根拠として、「家族の概念がなく、食人を行い、弔意がない」としたからである。

私はそのときこのようにツイートした。

政治的な問題は全てあっちにおいといて、

・ネアンデルタール人の骨の周りに花粉の痕跡があり、弔意があり遺体に献花したのではないかという説がある
・食人ではなく埋葬のため骨を綺麗にする作業だった可能性がある
・文化的な人肉食は部族と風習に寄っては弔儀礼

以上だけ頭においてください

正直にいうと、前者ふたつに関しては諸説ある。というのは、花粉の痕跡があることが献花であったかどうか、確定したことはまだ誰にも言えないし(異論もむろんある。花そのものがその場から出てきていないうえに、ネアンデールタール人に直接尋ねる訳にはいかない)、墓地の周辺で肉を捌く為の(食事や調理に対しても使われる)石器が見つかったのだから、それが骨を洗うためであって食べていないとはやはり言い切れるわけではない。

だが、弔意がない、とは。

食人することと弔意がないことは必ずしもイコールではない。確かに、その習慣がない人間にとって食人するという文字だけでもかなり胸が悪くなるイメージを与えるのだけれど、人類は文化的に、あるいは必要に迫られて、あるいは単なる嗜好として、歴史の上で何度かの食人を行ってきた。ここでは飢餓という本当にあってはならない必要が不幸にも生じてしまった場合については語らない。薬物としての人間、そして、個人的な嗜好に関しても是非を含め論じるつもりはない。

だが、文化的あるいは風習的な食人については少し話したい。現代ではほとんど廃れた風習だが、大きく分けて、それは2つの種類に分けられる。

・コミュニティ内部の人間を食べる食人

・コミュニティ外部の人間を食べる食人

この二つである。

このうち「コミュニティ内部の人間を食べる食人」は、往々にして死者を悼むきもちから産まれるものだ。

パプワニューギニアのフォレ族が最も有名だろう。親しい死者を葬儀、あるいは埋葬など死者との別れの儀式のなかで食べ、自らに取り込む。死者がずっと自分たちと一緒にいてくれる、守ってくれる、あるいはまた産まれてくる子供が死者の生まれ変わりとなる、など、地方や部族によって様々な考え方があるけれど、どれも別れを惜しむきもちから産まれた行動だ。(フォレ族の場合にはこの行動がクールーという風土病に対して一定の抵抗をもつ子供を産まれさせるという科学的に証明できる直接的な護符の役割を果たしたがそれはあとから検証した結果であり、この人々が科学的にそれを判断していたかどうかに関してはここでは論じない。だが、すくなくとも死者は食べられることによって、正しく生きているものたちを護ったのだといえる。その風土病が死者を食べることにより伝染することもあった、といえども)

もう一つの「コミュニティ外部の人間を食べる食人」は、敵を食べてしまうことによって、敵に奪われた人や物の復讐をしよう、あるいはその強い力を自らに取り込むことによって護りとしようという考え方で、アステカのウィティロボチトリやケツァルコアトルに関する風習がやはり一番有名だけれども、これより直接的でない形で我々の生活の中にもみることができる。たとえば、ユダヤ教のプリムのお祭りのお菓子「ハマンタッシェン」。これはエステル記にでてくる、ユダヤ人を虐殺しようとした”邪悪な”ペルシャ人の帽子のかたちにちなんで作られた三角形のクッキーのようなお菓子で、彼らを食べることによって自分たちの無事を祝う。(実際のところ由来には諸説あるが、ユダヤの人々はそれが由来であると自信をもって言い切っている)。選挙運動家が敵の名前のついた食べ物を食べるパフォーマンスをするのも、形骸化されたカニバリズムの一種であるといっていいだろう。

勝利祈願のげんかつぎのところまでいってしまうとあまりそのようには思われないだろうが、それでも「儀式的食人」の根底にあるのは、喪ったもの、二度と再会できないひと、戻れない暮らしをなつかしむきもちである。現代日本の我々にしてみれば、まったく弔いとかけ離れたイメージを持つ言葉であっても、そうなのだ。

弔意がない。

弔いのきもちがない人間など、いるだろうか。

人間は、それがホモ・サピエンスではなくとも、随分昔から死者をある特定の方法で、決まった場所と手順で風化させたり、土に埋めたり、鳥に啄ませたりなどしながら、墓地、あるいは「最後の住居」といえるようなものをつくってきた。ネアンデルタール人が地上に姿を現したのは約40万年前、死者の「埋葬」、つまり人工的に土をかぶせて埋めることがはじまったのは約10万年ほど前だが、この時点でもまだネアンデルタール人は生活している。私が冒頭に自ツイートを引用したネアンデルタール人の例は約7万年前で、まだ詳しくわからないことが多すぎるけれども何らかの霊安所であったことは確かだし、少なくとも約1万2000年前のイスラエルでは花を供えた墓地があったことが2013年にわかった。(註1)

猿の弔意に関しては、いまのところ諸説ある。彼らの仕草や行動をみて、あるという人もいるし、ないという人もいる。正確なところはまだわからない。猿は墓地をつくらないので。だが、ネアンデルタール人は猿ではない。いや、もっとずっと昔、200万年も300万年も前からもう人間は猿ではなかった。
最古の石器が少なくとも280万年前に作られたことがわかっている。

完全に私的な思いを吐露させていただければ、「人間の定義」にはいくつかありますが、「道具を作り、個体間世代間を超えて伝搬させることができた」時点でそれはもう人間なんですよ。服を着てなくて毛がたくさんあって前かがみで歩いていても、それはもう人間なんですよ、ホモ・サピエンスじゃなくても

一匹の猿が蟻塚のアリを舐めるのに使う木の枝を、試しにちょっと尖らせてみようと加工して、それを他の人に伝えた瞬間からその猿たちは人間になったんですよ!

私は先ほど、このようにツイートした。これは、学術的定義としては正しくないかもしれないが、私の中の「人間」の定義としては揺るぎない確固たるものである。他者に何かを伝えることが人間であるなら、その喪失を畏れない、悲しまないものが、それがどのようなベクトルであれ……たとえ、「私は他人の死を全く畏れないし哀しみません、あなたの言う事はまちがっています」と私に伝えてくる人間でさえ、そのことを私に伝えようとしているか、反論を持った時点で、存在するとは私には思えない。人間は、喪ったものや、時間や、人を、哀しみ、そして惜しむ。もう二度とそれにコンタクトをとることができないのを、とても苦しく思う。
「ネアンデルタール人は人間ではない」と発信した人も、それを誰かに発信するということそれじたいが、(それはその人が「人間ではない」と定義付けた人間に対してさえ)相手を人間として扱っている証拠だ。

しばしば軽率に使われるこの「人間ではない」という言葉を聞く度に、私は足元に大きな穴が開いたような気がしてとても不安に思う。心細いとおもう。
それは、我々が猿から人間になったとき、いや、もっと以前、哺乳類になろうと思ったとき、陸に上がって息をしようとおもったとき、アミノ酸のかけらではなく細胞になろうと思ったときから続く「人間」へのすべての樹形図のなかから相手を放り出してしまう。40億年の生命を否定して。

私たちの40億年の選択を、40億年のさいころ博打を、40億年の、らんちき騒ぎの、無秩序の、くだらない、醜い、花のような、………人生を。


註1 墓地に花を飾った最古の例、イスラエル | ナショナルジオグラフィック日本版サイト http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8124/

これはおひねり⊂( ・-・。⊂⌒っ