6/1〜6/9 今週は、バレンボイムときゅうりの春巻き。


小さな音が、近かった。大きな音よりも、ずっと近くにいた。

音楽というよりも、空間で、〈ここ〉のことを懐かしんでいる自分がいた。泣いていたのは、安心したからかもしれない。音を音として感じる前に、音があって、音が生まれている場所の肌触りに泣いていた。

〈聴こえる〉というのは、〈憶えている〉ということかもしれない。


この響きを、忘れてしまうかもしれない、と思うと目をつぶりたくなった。耳をふさぐのではなく、目をつぶりたくなったのはどうしてだろう。

次の日、他のピアニストの30番をイヤホンで流したら、聴こえてくる音の裏側にバレンボイムの音が鳴っていて、笑ってしまった。大丈夫だった。どこの珈琲を飲んでも大好きな喫茶店の珈琲を思い出してしまうように、私にとってベートーベンのピアノソナタ30番は、トンネルになった。



気に入っている散歩道がある。緑の色が毎日ちがう。雨が降ったあとの山のにおいが涼しい。道端に生えている小さな竹のようななにかが、今日も生えていることを確認して、ちょっと嬉しくなる。木のそばにいると、ほっとする。方角的にはまっすぐ歩けばいいことがわかっているので、毎回違う路地に入ってみる。通るたびに自転車の車輪みたいな音がする道がある。つい後ろを振り返ってしまう。自転車は、いない。



人が人に〈応答する〉とは、どういうことなんだろう、というのを研究テーマにしている。もともとは〈聴く〉ということに興味があって、その話をしたら先生が「勇気をもらえるかもしれないよ」と紹介してくれたのが、津守真の本だった。


津守真が〈生命的応答〉と表現した背景には、どんな祈りがこめられているんだろう。〈応答する〉って、なんだろう。



今週は何度か研究の話をさせてもらう機会があったけれど、「もうちょっと、聞かせて」と言われたときに自分から出てくるのは、風景の中に入ることができていないままの言葉の連なり。読めていないんだなぁと、グッと痛くなる。

二週に一度、毎日子どもとかかわっている先生たちと、津守真の本を輪読する会に参加している。沈黙が生まれたり、わからなくなったり、誰かの言葉から膨らんだり、ひらけたり。楽しくて、とても心強い。なにより、この会が存在していること自体が、「津守真を読む」この時間を大切にしている人たちがいるということが、嬉しい。


研究の支えになりそうな論考を探している。『レヴィナス入門』を読んだ。レヴィナスは、前提が結構違う感じがした。うーん。津守から感じられる、能動的で生き生きとした感じとは違う〈応答〉の香り。次は、デリダについて書かれている本を読み始めたけれど、なかなか呼吸のタイミングが掴めない本を選んでしまったかもしれないぞ。

津守真はユングの研究をしていた、というのを先輩が教えてくれた。それを言われた瞬間は、なぜかギョッとして抵抗感があったけれど、河合隼雄の本を読んでみると、静かに満ちているものがあって、もっと読んでみたい、と思った。〈深い悲しみ〉について、書かれていた。



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明日から、絵の額装のために2週間ほど静岡へ。「誰かの〈窓〉になれるって、幸せなことだねぇ。」と絵に話しかけている。

むらちゃんとたかこさんからのメッセージの中で「会えてないけれど近くにいるような感じ」と書かれていて、その言葉がふたりの笑った顔そのものだった。ゆうさんから、嬉しいテーマで依頼をいただけた。「やっほー!」から始まるLINE、「元気?」とかよりもずっと元気になっちゃうな。




今週は、きゅうりの春巻きが、食べていて楽しかった。







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