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6/10〜6/18 故郷だから好きだというより、好きな場所がたまたま故郷だった。


朝、レンタサイクルに嬉しそうに座っている女の子がいた。たぶん2歳半くらい。お父さんに支えてもらいながら、手をいっぱいに伸ばしてしっかりとハンドルを掴み、まっすぐ見据えた目から嬉しさが溢れていた。目の前にあるのは壁だったけれど、彼女に見えていたのは、きっとひろいひろいどこかだったのかもしれない。こちらまでにこにこしていると、お父さんと目が合って「自転車がほんとうに好きなんですよ」と嬉しそうに話してくれた。もう少し大きくなったら、二人で自転車に乗ってどこかへ行くのだろうか。

故郷だから好きだというより、好きな場所がたまたま故郷だった。今週は、三島で過ごしている。

木が揺れているのが、嬉しい。水が流れているのが、嬉しい。

時間のながさというのは、場所によってちがうのだろうか。神戸にいるときよりも、時間がゆっくり進んでいる。同じ”一時間”でも、ぐ〜〜っと引きのばされているような感じ。

祖母のお庭で絵を描いた。食事の時間までゆとりがあって、お庭で過ごしていたら絵を描きたくなった。引き出しから取り出してくれたパステルたちは、私がまだ知らない色がたくさん入っていた。

祖母がどこかから額縁をもってきて、飾ってくれた。お庭のなかに置かれた絵は、生まれたばかり、という感じがしなかった。絵は〈窓〉だなぁとあらためて思う。

お土産にした甘夏のタルト。冷凍して持って帰ったら想像以上に美味しくて喜んでもらえた。

隣の駅の近くにあるカフェのタルトで、どうしてもここのものを持って帰りたかった。そして、それ以上に、このカフェを見つけた喜びを、持って帰りたかったのだと思う。

昨年、「海外」が遠く遠くなってしまった代わりに、飛行機の機内雑誌を購読したのだけれど、ひらいてみると、国内特集に切り替わっていた。考えてみればそりゃそうか…と思いつつ、ちょっぴり寂しかった。その寂しさにも慣れたと思っていたときに、このカフェと出会った。コーヒーもケーキもとっても美味しかったけれど、なによりも嬉しかったのが、写真家の旦那さんが撮ったいろいろな国の写真が十数冊アルバムになって置いてあったことだった。嬉しそうにレストランで微笑む奥様の写真が、数年前に機内誌で見た、スイーツを頬張るドイツのおじいさんの写真と重なった。




卒業論文。文献研究にしようかと本を読んでいたけれど、頭の中に概念だけが増えていくような感覚に、違和感を感じるようになった。「外から見て分析するのではなく、自分も一緒に泥だらけになること」を選んだ津守先生の本を基軸にしたいのに、外にいるのは私じゃないか、と気がついた。

そんなこんなで少し悶々としていた頃に、ちょうど東京で予定があって、津守先生が校長をされていた愛育養護学校(現 愛育学園特別支援学校)の近くまで行ってみることにした。「ここが、あの男の子と一緒に行ったスーパーかな」などと想像しながら歩いていたら、学校の掲示板に【卒業生の陶芸作品を展示しています】と張り紙が。入り口のところにいたおじさんが声をかけてくれて、中に入らせてもらった(!)。

いろいろな色の笑い声が聴こえる、のびのびとした空気が漂っている場所だった。「そっかぁ。ここかぁ。」と、大きな息をはいた。


お皿を選んで、先ほどのおじさんのところに持っていくと、なんと(今の)校長先生だった。「津守先生の本をもとに、卒業論文を書こうとしているんです」と話したら、いろいろな話をしてくれた。あぁ、いろんな人と一緒に、今でも津守先生は生きているんだなぁ、と感じた。最近出版したばかりだという冊子(津守先生の25年にわたる文章をまとめたもの!)もいただき、「お弁当と服を持って、またおいで」とボランティアにも誘ってくださった。


津守先生の本が、〈過去〉のものではなく〈いま〉のものになった。私も、一緒に泥だらけになってみたい。




絵の額縁を、木の板から作ってみることにした。どんなのができるだろう。








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