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寄り添うことは必ずも優しくない

久しぶりに、大量に溜まっているnoteの下書きを1年分くらい整理しました。
付き合っていた頃の罪悪感について綴っていた文章がたくさんあったり、『共感』や『ケア』など同じテーマについてひたすら考え続けていた記事があったり、それらをほとんど忘れていた自分に驚き、楽しかったです。笑
今回の熟成下書きは1ヶ月前の2/27より。


最近モヤモヤしていることの一つが寄り添うということ。

自分が看護を学ぶようになって、ただただ相手の気持ちに共感すること、ありのままのあなたでいいのだと肯定し続けること、傾聴ということが本当の意味でどれだけ難しいかを痛感してきた。

誰かの相談に乗る時、以前の私だったら問題解決のアドバイスとか自分の意見を言うことも相手のためになるのだと信じていたから、人の話を聴く時意図的に自分の考えも伝えていた。だが、ただ相手の気持ちを『聴く』こと、それだけで十分意味があるということもだんだんと理解してきた。

次第に自分があなたの役にに立ちたいという傲慢さを少しずつだけど自覚した。手伝うことによって相手の持てる力を奪わないように注意して、相手は自分で変化を起こす力があると信じて見守って待つことを正しいと思えるようになった。自分にいつしか内面化していた社会の価値観も少しずつ距離を置いて見つめなおした。価値観を相手に押し付けず、あなたはそのままであってもいいと願うように思うこともできるようになった。
(それが実生活で伴わないときもまだまだあるのだけど。)

大学1年の新しい環境でであった友人たちは『寄り添う』ことを大切にする優しい人が多かった。自分自身そういう周りの人にどれだけ支えられてただろう。少なからず彼女彼らから影響を受けて、自分自身も変わった。

でも最近、振り出しに戻ったようにしてわからない感覚を抱いている。
相手のことをそのままでいいと受け止めることは相手のためなのか?こういうふうに変わった方がよりよくなる、そう変わるためにどうすればいいか、そういう問題解決の姿勢や創造的な対話を私は寄り添うことによって辞めてしまっていたところがある。相手のことを否定せずとも意見を批評することはあっていい、そういうことも言葉では理解しているつもりだったけど、本当の意味ではわかって行動していない。
現に、つらいときただただ想いを受け止めてくれる友人に救われる反面、自分の直した方が方がいいところをはっきり言ってくれる人の存在が年々希少になるにつれて、その存在のありがたみも増している。

寄り添うことを大切にする看護や福祉の世界(という捉え方も偏っている?)に身をおけば置くほど、その中で美徳とされる価値観に染まっていく自分を自覚しながら外にいた頃の感覚を忘れてしまう。主観性の世界を大事にすればするほど、客観的な正しさが何か、そのバランスがわからなくなった。

そもそも、寄り添う方向に舵を切ったまま思考停止になっていて、本当の寄り添うをまだ理解していないだけかもしれない。

自分してきた「寄り添う」に近い場面を批判的に振り返ってみる。

優しいって何
寄り添うって何
相手のためって何
相手の力を信じるって何
寄り添うことは時に冷たいか
受け止めることと受け入れることの違いとは

とはいえ、寄り添うということを大切にする人に敬意あるし、寄り添うことがあるからこそ成り立っている世界があって、そこに誇りもある。

だからこそ、自分が信じていた寄り添うということも、盲点だったことも、また1から考え直したい。
優しげな寄り添いじゃなくて、相手のためを考えた末の手段としての寄り添うを選べるようにしたい。


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