見出し画像

易学は30年やって一人前!そんなエールから25年たった

易学の歴史・背景を知っておくことも、大切にしたい。

大きな歴史の流れの末、今易学を使う責任と恩恵を感じ、易学を後生に渡すために大切に研鑽したい。まだまだ歴史は覆るかもしれないが、令和6年における背景。先達に感謝しつつ覚書す。

陰陽五行の考えや、先天盤・後天盤が日本に入ってきたのは飛鳥時代と言われている。

日本書紀によると、西暦538年
第29代・欽明天皇の時 , 百済の聖明王が仏像、五経、卜書、暦本、薬を日本の朝廷に献上した。

西暦602年
第33代・推古天皇の時、百済の僧、観勒が来朝し暦本をはじめ天文・地理書や遁甲方術書を献上した。

後日、時の朝廷は観勒に命じて、法隆寺学問所にて書生に暦法、天文、遁甲、方術を学ばせた。

聖徳太子は、遣唐使の僧に命じ百済伝来とは異なる当時の最新の陰陽道を伝えさせている。

中臣鎌足、蘇我入鹿は競ってこれに学んだと言われている。

天武天皇は易占に通じ、壬申の乱では自ら筮竹で占ったと言われている。

内容の一部は変わっているとは言え、平安鎌倉時代の陰陽師のみなさん、戦国時代の軍師のみなさん、先輩達の使った方術と源泉が同じものを道具として使っているロマンはいささかある。

江戸中期までは易学はごく一部の階級だけに秘密裡にされていた。

1770年頃、江戸中期、易がはじめて書物となり、一般に伝わるようになった。江戸時代だけでも百数十冊の家相の本の出版が確認されている。

江戸時代は職業占い師が誕生した時代。
易学を極めた新井白蛾をはじめ、平沢随貞、真勢中州ら易者が大活躍した。
「運は食なり」で有名な水野南北先生もこの時代だ。

わたしは今も易筮の読み解きの参考に『新井白蛾先生著・易学小』を参考にさせていただいている。

古美術商のお客様から頂戴した

石川県の金沢に新井白蛾先生の墓があるそうだ。

白蛾先生のお墓のエピソードが面白い。
1960年12月、後継断絶により無縁墓地となった白蛾の墓は、金沢市により墓所の整理処分が予定されていた。
そこへたまたま金沢へ出向いて市役所で白蛾のことを調べていた人が、墓所の危機を知り市の許可を受け保存責任者になり墓所の存続が決まった。その御仁が加藤大岳先生。
2005年、参拝者の目印に建てられていた木製の門が腐朽した時に黒御影石を用いて復元再建した方が石本有孚先生だという。
その門を占い業界では通称「黒門」と読んでいる。


日ごろ本棚で名前だけは眺めて知っているの占術大家の先輩方の生き生きと占術以外の裏エピソードは面白い。
不思議な縁で処分を免れ先輩たちが大切に守った日本易学中興の祖の墓所に、私も一度参ろうと思う。

そのお墓なのだが、新井白蛾の遺言により墓石はなく塔婆だけだそうだ。

白蛾の遺言
「易術占筮を以て、一家の端を持す、固より以て其業を不朽にする(誇る)に足らず、木に就くの後(死んだ後)、敢て碑碣(石碑)を修むること勿れ」(『先哲叢談・後編』東條琴台著)



~その生業をほこらない~か

10年ほど前は「占い師」と名乗ることに少し抵抗があった。へんな世界にいる人だと偏見を持たれたくなかったからで、私自身が占いの世界に魑魅魍魎感をもっていた(笑)
今はやはり面白く魅力的な世界だと25年易に魅了されつづけてきて、あきらめて思う。

~私はただの占い師~
それでいい。それがいい。

どきどきはなんて素晴らしい知識だっ💡とうっとりする。それもまぁ良し。たまに易学易学と偉そうになっていないか?と己に問うことにする。

易学を学びはじめる頃
「易学は30年やって一人前」「貴女に向いている」とあたたかいエールをくださった恩師に感謝している。
その言葉がいつも私をはげましてくれた。




この記事が参加している募集

わたしの本棚

仕事について話そう

いつもありがとうございます🌱お花を買わせていただきます