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現代タイ経済史―タイは先進国になれるのか―

2023年のタイ王国の名目GDPランキングは30位です。
アジアで言うと、中国、日本、インド、韓国、インドネシア、台湾に次ぐ6位です。
日本を始め世界各地の製造業・サービス業の拠点が置かれ、自動車・精密機械・造船・食品などあらゆる工場が林立します。そして首都バンコクは世界有数のメガシティ。新たな文化や産業が生まれる先端都市です。

経済的には優等生と言っていいですが、政治的には混乱が続いています。タイは冷戦時代に作られた「王室」「軍」「資本家」の支配構造が非常に強く、文民政権の政治改革がことごとく軍のクーデターで潰されていた歴史があります。2023年の選挙では実業家出身のピター党首率いる改革派の前進党が勝利しましたが、軍人が支配する議会の妨害もあり首相に就任できず、保守派の政権が成立しまいました。
民主主義が形ばかりのものになっているタイでは政治は危機的状況にあります。
一方で、これまで政治に関係なく発展してきていたはずの経済も、「中進国の罠」に陥る懸念があります。
タイ政府は中進国から先進国への発展を目指し様々な政策を打ち出していますが、果たして達成できる見込みはあるのでしょうか。


1. 反共産主義の牙城

第二次世界大戦後、タイの政治を独裁的に担ったのが、戦前戦後を含めると8回の首相在任歴があるプレーク・ピブーンソンクラームです。
ピブーンは戦前は日本軍と協力したり、「大タイ」ナショナリズムを高揚させ少数民族を弾圧したりなど、タイの国際的な地位を危機にさらした人物です。

プレーク・ピブンソンクラーム

彼は国粋主義者でありかつ民主主義者でもあったのですが、戦後はアメリカやソ連といった大国とも対等につきあうバランス外交を模索し始めました。

それを危険視したのがアメリカです。
1949年には中国、1954年には北ベトナムでそれぞれ人民政府が成立し、ラオスやカンボジアでも革命勢力が勢力を強めていました。アメリカはこれら革命勢力が東南アジア全域を共産化することを恐れてたわけです。

 そこでアメリカは、陸軍元帥サリット・タナラットと結びました。

サリット・タナラット

1957年9月、陸軍元帥サリット・タナラットはクーデターにより第8次ピブーン内閣を打倒。部下のタノーム中将が内閣を結成しますが政局は混乱し、翌1958年にサリットが再クーデターを敢行し首相に就任しました。

東南アジアの赤化を最も恐れるアメリカが建てた戦略は、王室の権威によって民心を安定させ、軍の暴力装置によって治安を安定させた上で、戦禍から回復した日本や西ヨーロッパの国々の投資先とするというもの。西側諸国との連携を強めタイを東南アジアの「反共産主義の牙城」としようとしたのです。
西側諸国の投資によって儲かるのは経済力のある中華系タイ人の資本家です。彼らは喜んでこの体制に参加しました。
こうして、アメリカの後ろ盾のもと、王室・軍・資本家が協力してタイを支配する構造が成立しました。

2.民間主導型の工業化(1960年代)

サリット政権下では「外資を導入した民間資本主導の工業化」が推進されることになります。
日本や韓国が国家主導型で開発を進めたのと対象的に、タイでは国内産業育成のために関税を課す以外には特定の産業の育成には力を入れずに、民間主導の開発を目指しました。

製造業の分野で大きく発展したのが、繊維・衣類、自動車組立、家電、鉄鋼二次製品、セメント、化学肥料、紙など、国内市場向けの産業です。
タイ人資本家たちはコアな生産技術の大半を外国企業に依存しつつ発展を遂げました。具体的には、日産自動車と組んだ「サイアム・グループ」、セントラル硝子と組んだ「メトロ」、川崎製鉄と組んだ「サハウィリヤー(SSI)」、ブリヂストンと組んだ「ブンスーン」などがあります。

1960年時点で、タイで最も大きな産業は食品業、具体的にいうと精米業でした。35億バーツで全産業の42%にものぼりました。タイは戦前から「ライス・エコノミー」と揶揄されるほど米の生産に経済が依存していました。
ところが製造業の発展により、1980年時点で86億バーツで全産業の14%と比率が大きく下がることになります。
とはいえ農業生産が下がることはなくむしろ上がり、米だけでなく、トウモロコシやサトウキビ、天然ゴムなど農業生産物の多様化にも成功しました。

軍人政権だったにも関わらずなぜ経済政策がうまくいったのか。

実は経済政策の実務は優秀な若手官僚が主導していました。
1950年前半、大勢のタイの若手官僚がアメリカに留学し、彼らが帰国して働き始めた頃にサリットのクーデターが勃発しました。
最先端の経済思想に触れた若手官僚たちは、古臭いピブーンの統制経済にうんざりしており、民間企業主体の開発と外国資本の導入によるマクロ経済政策の必要性を主張していました。サリット政権下で彼ら若手官僚たちは重用され、新政権での経済政策を担うことになります。
サリットも経済テクノクラートの政策には細かく口を出さず、経済政策はある種「経済官僚の聖域」となり、政治が混乱しても経済は安定して成長する現象の一因となりました。

3. 「半分の民主主義」(1970年代)

サリット政権とタノーム政権下でタイは工業化が進み、GDPの製造業に占める割合は1960年に12.5%だったのが、1970年には16%に増加していました。

製造業の拠点はバンコクを中心とした首都圏に集中し、タイ北部・タイ東北部は開発が遅れていました。
そのため、バンコクにはよりよい収入と仕事を求め農民が流れ込んでいきました。農民は安価な労働力として供給過剰の状態が続いたため、賃金は上がらず安く据え置かれました。安価な労働力がタイ製造業の強みでもあったのですが、労働者の不満は高まりました。

1963年に死んだサリットの後を継いだタノーム陸軍大将は、アメリカの要求を受け入れ、激化するベトナム戦争への介入を決断します。具体的には、空港の使用を含む北爆への協力、タイ軍地上部隊のベトナム派兵です。
これらの政策を推進するため、タノームは1971年11月に自分自身の内閣に対してクーデターを敢行し、憲法の停止と議会の解散、戒厳令の発布を行いました。
これに知識人と学生が強い反発を起こします。
かねてより軍と政治家、資本家の汚職(コーラップチャン)の蔓延が批判されていたこともあり、知識人・学生・市民の憲法制定要求運動は拡大していきました。

1973年10月、政府を批判する運動が巨大化して一部軍人も加わり、国王も学生たちに賛同したことでタノームは首相を辞任して海外に亡命しました。中間層と学生が起こした民主化により、言論や集会の自由が大幅に認められるようになりました。するとそれまで抑えつけられていた農民や労働者によるストライキや賃上げ要求デモが頻発するようになります。
労働運動の一部は革命運動と連動し、タイ共産党とも繋がっていました。加えて、隣国のラオスで王政が廃止されるという衝撃の事件が起こったこともあり、軍や王党派からなる保守派は危機感を強めました。

1976年10月、タマサート大学の学生集会に国境警察軍と右派組織が発砲し多数の死者を出す事件が発生(血の水曜日事件)。混乱する中で、軍はクーデターを敢行し、国王の支持を受けた元判事ターニンが首相に就任しました。ターニン政権は1977年10月に若手将校団のクーデターで崩壊し、クリアンサック国軍最高司令官が首相に就きます。しかしクリアンサック政権も共産党対策に成果が出なかったため、80年にプレーム陸軍司令官が首相に就任しました。このプレームのもとでタイ政治は安定を取り戻すことになります。

プレーム・ティンスーラーノン

初期のプレーム体制では議員の大半が軍人で占められ、資本家たちは彼らと定期的に会合を開くことで政府に対する要望を出すことができました。そこには当然談合や癒着も発生しました。
中間層には言論の自由が認められ、首都圏では公正な選挙が実施されて中間層の意見を表明することができるようになりました。一方で、地方の農民や労働者層が結社をしたり意見を表明することは極端に制限され、報道の自由も厳しく制限されました。
また、プレーム自身は選挙に出馬せず、国王の使命を受けて首相に就任するという非民主的なプロセスで長期政権を築きました。

この体制は「半分の民主主義(プラチャーティパタイ・クルン・バイ)」と呼ばれます。
表面上は民主主義が成されているようには見えつつも、国民の大半を占める農民・労働者層は旧来の抑圧的な体制が永らく続いたのでした。

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