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旅とねがいごと

ことばの一瞬の狂い舞いが心に残っていて。「また、ずっと」って、ちょっとへんな日本語だ。リピートなのか、フォーエバーなのか、どっちつかずで迷いがある。

「来年も、また」なのか、「これからもずっと」なのか。それとも両方なのか。直球で投げればよかったな、そういうのが、ほらやっぱり今になって響く。

去年のきょう、朝霧の海をみながら、迷いながら、いや照れながら投げたから。七夕の願いごとなんかね、名ばかりの季節行事なんだからと。


イタリア人の師匠、師匠のうちに住んでいた中国人の女の子(いまでは親友)、そして元弟子であり師匠のうちに帰省する日本人のわたしの3人。わたしたちは、幻想的な七夕の朝を、リグーリア湾が見える別荘で迎え、それぞれの言語で願いを書いた。

中国と日本の言い伝えを照らし合わせながら、師匠に、七夕の日の説明をした。古代中国からの言い伝えである七夕節。奈良時代、日本に伝わり棚機津女(たなばたつめ)の伝説と融合されたそうで、中国では「乞巧节」(きこうでん/手芸上達を願う日)というらしいが、ふたまわりほど若い中国人の彼女にとっては、恋人ができますように!の日らしい


冒頭の写真は、七夕の夜の食事。
師匠の十八番である丸ナス焼き。塩をふって1時間おかないと機嫌がわるい。塩とオリーブオイルをかけてペロリンといただく。全粒粉のパンを切って、冷蔵庫から出してきた米国土産のビールで夏のごちそうを流し込む。何にもないねえと、チーズを出してきたころにぶどう酒をあけ、天の川が見えるまで3人でしゃべりつづけた。

願いごと、胸のうちを「ことば」にするって、素直になればなるほど、裸になるような恥ずかしさがある。師匠は「あんたたちイタリア語わかるからなあ」と、恥ずかしがっていて、結果ひとつめは、カッコつけたなって思うような文言を書いたので、ひゅーっ!「グランデー!」(偉大!とかオトナ〜!)と、小さく大袈裟になだめた。

師匠にとっては、願いごとといえば神なのだろう。織姫さまに技芸を願うでなく、もうレベル壮大。

E CHE DIO CE LA MANDI BUONA
(神様が私たちに最善を善を授与してくださいますように)


ESSRE DI NUOVO QUI INSIEME
LANNO PROSSIMO
(来年もまたここで一緒に)

2枚目は、冷やかせなかった。
むしろ静かにわたしもうなずいた。

直球で書いたことばは、叶わなかったときも後悔がない。イタリア語の成句「DI NUOVO」(また、もう一度)には、NUOVO(新しい)という意味を含んでいる。好きな言い回しのひとつだ。70をすぎた師匠の作品が、年齢不詳な風を吹かせているのは、変化球と直球を両方もちあわせているからなんだろうなと改めて思った。


免疫の暴走で、今年はそこに行けない。
師匠は、スカラ座で行われたエンニオ・モリコーネ追悼コンサートの動画を送ってくれた。

せめても、織姫さまは、彦星さまとその川のほとりで、会えますように。曇天の東京から直球で願いを投げたい。



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