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朗読会と猿

まえがきコッチョリーノ

▶︎陶芸、うつわのことでないけれど、メモとして残そうと思う。▶︎わたしは、美しい単語のひとつひとつより、淡麗な文節の流れを求めているのかもしれない。ユーモアあるものが好きで、翻訳物でもそれは光る。▶︎それは、一見関係のない物づくりの起点になっているようで。▶︎子どものころから絵本や童話が好きで、もちろん日本の物語、ヨーロッパのそれも好きで読んできた。エッセイも好きだ。ほんの少しだけ、細い三日月型の切った爪のかすくらいだが、イタリアのエッセイや物語が原文で読めるようになったので、ヨチヨチな勉強はつづけている。▶︎広大なアメリカ文学には、原文を読める英語力がないからと、すすんで手を出さなかった。けれども、手が長くなったのはMONKEYという雑誌に夢中になったから。柴田元幸編集長の朗読は、その手をひっぱる力がある。▶︎本日は、朗読会に参加した感想を、自分のメモとして残そうと思う。

(写真作品「サルはなんでも知っている」コッチョリーノ作)




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MONKEY22号に掲載されているエドガー・アラン・ポー「赤死病の仮面」はシェイクスピア「テンペスト」の写絵だが、朗読会では、さらにポーのパロディ(ポー本歌取り)が編集長の朗読で聴けた。題名は「大きな赤いスーツケースを持った女の子」(レイチェル・クシュナー)。さすがニューヨークタイムズ「デカメロンプロジェクト」と名乗るだけあって、最初は、まやかしのような情景を頭の中に浮かべたが、最終的には、現代的な闇の匂いのようなものがカラダから離れなくなるほどだった。

「怖い」とは、こういうものだ。





* * *


少し話をそらそう。
わたしは霊の話が好きだ。子どものころから、どちらかというとソレを感じやすいタイプらしく、起こった現象を真剣に聞いてくれた祖母が「こわくない」と教えてくれたから、好きになった. . .けれどね、これは怖かった。


イタリアに移住して、外国人数名でアパートをシェアしていた時のこと。ひと部屋をオーストリア人の女の子と2人でシェアした。彼女は夜遊びが盛んで、夜中にふと起きるといつもベッドは空っぽ。ある嵐の晩も留守だったので心配しながら眠っていたら、真夜中3時ころ、バタンと部屋の大きな窓が開いてカーテンが千切れそうに狂い舞った。ガラスが割れたらイヤだわと思ってベッドから体を起こすと、水しぶきが飛んできてまぶたがしっかり開いたと思ったら、そこにはずぶ濡れのブロンドヘアの女の子が立っていたので「ああ、おかえり」と言った。でもねでもね、朝になって起きるとベッドは空だった。学校で彼女に会うと「きのう帰らなかったのは内緒ね」と小悪魔みたいに言った。外国のおばけは、日本のより怖い。直感で思ったので、すぐに引っ越したという、霊体験イタリア版というのもあるけれど。



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朗読会、つづいては、バリー・ユアグローから届いた柴田元幸宛て書簡のようなエッセイ(Lit Hub掲載)の朗読。内容は「ボッティチェリ疫病の時代の寓話」(バリー・ユアグロー)について。


バリーの文節には、恐怖と不安にあふれるトラウマが、ボッティチェリの絵画のように香り付きで美しく思える不思議がある。経験のただなかでなく私的な隔たりのなかで。それは決して美化ではない。掌の小説が、なぜこの日本の読者の心になぜ届いたのかと、バリーは翻訳者の柴田氏に問う。返答の言葉「美的に歪められた経験だから」というやりとりに、怖さとは、逆にこういうところにあると身震いしてしまった。

疫病を日記調に語るものは多いが、これだけ時間がまわると、当たり前だがそれは過去になると感じていた。過去の記録になると。noteと書籍の両方で読んだ「コロナの時代」(パオロ・ジョルダーノ)もどうなるだろうか。


自身の文章の中では「コロナ」や「COVID」でなく「疫病」とすることが多いが、エッセイの中でバリーも「プレイグ(plague)」を使ったという。さらには、



彼はそれを「ボッティチェリ」と置き、寓話とした。


影をなくした女の子の話のこと。
かつてあったように歌をうたっている情景。
健康維持のために鏡を見る条例。


それらの情景は、カミュでもボッカチオでもデフォーでもなく、エイリアンがあふれるゾーンを描いたソ連のストルガツキー兄弟「路傍のピクニック」(1972)にインスパイアされたものだという。タルコフスキー「ストーカー」の原作だ。彼は、まさに今の米国の状況を「ゾーン」としたのだ。




とうとう、現代アメリカ文学にも手が伸びてしまった。ああ、ちょっと怖い。


(完)

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