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振り返ることで創作ビジョンのしっぽをつかむ

今月から、flier の新しいcampに参加します。
なんと、最近の推しの哲学者(←すごいパワーワード。言ってみたかった)、谷川さんの講座です。


今日は、DAY1の課題本である「創造するエキスパートたち」3・4章の要約(という名のメモ)と感想のたたき台を晒してみようと思います~。


要約

本書は心理学者の横知早和子が、芸術家たちの創造と熟達について認知科学の観点から考察したものである。創造性研究者のチクセントミハイが提唱した観点「芸術的創造は問題解決ではなく問題発見であり、その問題発見とは芸術家の創造的なビジョンである」を補助線に、創作ビジョンの形成や役割をひも解くことで、創造と熟達の秘密を解く。


第3章では、現代の若手美術家のインタビューをもとに、熟達の初期の特徴や熟達に必要なものについて考察している。


第二次世界大戦前では、芸術は無意識の世界を作品化したものであり、若手は情熱・苦悩・稚拙・未熟、ベテランは成熟・冷静・安定・熟考というイメージが固定化していた。しかし、第二次世界大戦を経て、現代では、芸術たらしめるものとは、表現のスタイル、方法や技術よりも、アイデアやコンセプト、意味となりさらに複雑化している。この現代において、人はどのように芸術家になるのか。技術と同様に、アイデアやコンセプトも熟達させることができるのか。

  • ブレイクダンスでは技を得ようとする際の失敗経験が、実は新たな技の発見に結びつく。これは試行錯誤の過程で半分偶然、半分必然的にアイデア生成がなされると言える。こうした、過去の技術や知見に変更を加え、新たな価値を付与する活動はほとんどの創造行為に共通している。

  • 岡田らは、芸術の目的の生成に関する重要な示唆を与えている。研究の結果、類推しながらあるものに何らかの変更を加え、ずらすことで新たなアイデアやコンセプトが生成されることが分かった。さらにこうした経験を積むほど、短期的な個々の作品創作は、共通する上位のコンセプト、中核のテーマ、つまり創作ビジョンの達成に向けた活動の一部をなしていることを示している。芸術創作は何らかの目的を達するために行われているのである。

  • 創造性研究者のチクセントミハイが提唱した観点「芸術的創造は問題解決ではなく問題発見」にも通ずるものがあり、美術家の熟達の仮定で、創作ビジョンは形成されることはかなり確からしいといえる。

  • 美術家の探索過程で、未知の課題があるときこそ、新しい何かが生まれてくる。表現のために取り組むべき課題は、自らの興味関心を手掛かりとして探す。それを形にして、しっくりこない感じを手掛かりに次の作人を展開させていく。アイデアを形にするための探索活動と、結果を振り返り次の活動に生かしていく省察過程が、創造の本来の姿といえる。

  • 作品には、獲得した知識や技能だけではなくその人が元々持っている知覚や感覚の思考性、気質や特性などの要素が影響している。伝わりにくい部分でも、普段はあまり意識しない自らの指向性た特性について言葉にすれば、自己理解と同時に、自らの創作についての「わざ言葉」の生成になるかもしれない。また、これを意識化すれば認知的操作ができるものになるだろう。これは、創作活動を長く続けていくための重大な基盤になる。

  • 美術家の熟達プロセスと、認知科学が示してきた創造的認知のプロセスの違いは、創造と探索の分解にある。創造的認知のプロセスでは生成後に探索する二段構えだが、美術創作では手を動かしながら考え、仕上げるためである。制作過程の中で多様な探索をしていたのだ。

  • 美術家が作品制作をする目的は自己実現のためだけではなく、表現方法や自分の感覚の意味を探し、表現の可能性を探究し、他者とコミュニケーションをするために相応しい方法を探している。これが熟達に必要なプロセスである。

第4章では、熟達した美術家のインタビューにより、彼らが表現の幅を広げることができる背景を見たものである。

感想

芸術の創作ビジョンとは何か、そして日常のさまざまな創作活動がそれにどう影響するのかを探りたいと思う。我々の日々の作業が、どのようにして意味のある「創作ビジョン」へと昇華されるのか、その条件に焦点を当てる。


著者曰く、芸術の目的や創作ビジョンは、短期的な作品の生成からなされるという。

そもそも、この「作品」とはどのような形態があるだろうか。
形となって残るものとすると、例えば、仕事でのチャットのレスポンス、メール、会議用資料、新規事業、noteの記事、料理、お絵かき。

これらはいずれも私の日常での作品である。
これらの短期的制作を延々と繰り替えしている一方で、わたしは決して熟達した芸術家にはなれていないといえる。その理由はなんだろうか。

まず、作品なら何でもよいわけではなさそうだ。・・・おそらく、作品に機能的価値が求められている場合、それは「創作ビジョン」へのプロセスにならない。仕事でのチャットのレスポンス、メール、会議用資料、料理、がこれにあたるだろう。なぜなら、機能的な目的ありきで作られるからだ。チャットでは誤解なく相手に伝わること、料理では生命を維持するだけのカロリーと栄養素を取れることが優先される。

一方で、他者から機能的価値が求められていない場合は、熟達のプロセスになり得るのだと思う。わたしの場合、新規事業、noteの記事、お絵かきである。(新規事業はグレーだが、会社から求められて始めたものではないのでこっち)

このなかで特に繰り返しているのはnoteの記事だ。誰に求められてるわけでもなく、ずっと続けている習慣である。

・・・いや、白状すると、投稿を始めたころはフォロワーを増やしたいとか認知を広げたいとかの下心もあった。これは「機能的価値」だった。しかし、3年ほどたった今は、いろんなテーマ、文体などの表現方法、アイキャッチ画像で思考を表現するといった自分の遊び場となっている。こうして、noteを続ける目的は結果的に画面の向こうのあなたとのコミュニケーションをとることになったと思う。スキをたくさんもらうためではなく、アウトプットすることで知識を固定化するためでもなく、日常のデトックスでもない。そして、noteを続けていると、過去に書いた記事を読み返すことも多い。例えば、古い記事に誰かが「スキ」をつけてくれたときや、新しい記事を執筆してて、「前に似たようなことを書いたな」と思いだして引用するときだ。そのなかで、もしかしたらこれがわたしの「創作ビジョン」なのか?と思えるものがあった。

それは、「わたしはこれでいいと思っていない」という、現状への社会に対する問題提起である。実に抽象的である。これを表現する手段として、noteの執筆活動があるのかもしれない。(そして新規事業も。)

こうして自身の創作ビジョンのしっぽをつかめたのも、過去に作ってきた作品が形として残っているからだ。そのおかげで「なぜ私はこれを作ったのか?」と探求することができたのだと思う。

つまり、芸術的追求へと昇華される「創作ビジョン」のしっぽが見えてくるのは、他者から機能的価値を求められない作品であること、時間を経ても振り返られる状態で残ること、そして実際に自身で振り替えったときの3つの条件が求められるのだと考えられる。



全然まとまってないけど公開しちゃうもんねー!

おしまい

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こちらは、いつもは主に新規事業開発について発信しているアカウントになります。

最近、他社さんの新規事業開発をされてる人たちとのつながりが増えてきました。社内だとメンバーもいないので、結構孤独な取り組みになりがちだったのですが、似たようなミッションで動いてる人たちと出会えると、わたしもがんばろ!って思えるんですよね。勝手に良い影響を受けています。

細く長くがんばろう~

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