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「運命の輪」そして八節と弓

八節は一年中の季節の八つの変わり目を言います。二十四節の中の八つで、立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至を指す言葉です。

活動サインの始まり⇒如来の十字
このうち二至二分が春分・夏至・春分・冬至と呼ばれ占星術ではそれぞれ活動サインの始まりの時を表します。

固定サインの15度⇒菩薩の十字
対する四立(しりゅう)は立春・立夏・立冬・立冬の前日を指します。四立とは「暦のうえで新しい季節がはじまる日」に当たります。四立のまえの約18日間がそれぞれ土用に当たります。四立は固定サインの真ん中15度の時にあたります。

タロットカード10運命の輪に記された太陽車輪

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=114011095による

二至二分が縦横の十字、四立が斜め十字にあたることは前回noteにまとめました。如来の十字が太陽のサイクル(時)を表していることに対して、菩薩の十字は月のサイクル、月は海の潮汐と連動しているので潮時のこと。みたいな仮説を考えていました。
でも、24節季を参考にすると、四立が当たわす季節の移行期が斜め十字なのかな?と思えてきます。
おまけに、運命の輪はヘブライ語でカフ「掌」を表すのだけれど、これって神の掌ってこと?手相に出てくる神秘十字のこと?
う”あ”ぁ~!!全然わっかんねー、お釈迦様の掌でジタバタする孫悟空の気分です。

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=167848による

持論を強く押し通せず、次々に違うことを言い出すカオスな私です。だっていろいろな見方や考え方があっていいし、新しい視点が次つぎに出てくるのは仕方のないことだと思うので。

比較のため、ホイール・オブ・フォーチュンについて少しメモ。
春分にあたるオスタラ:3月20日
立夏にあたるベルテイン:5月1日
夏至にあたるリサ:6月24日
立秋にあたるルーサナ、ルグナサード:8月1日
秋分にあたるマボン:9月21〜29日
立冬にあたるサムハインまたはハロウィーン:10月31日〜11月1日
冬至にあたるユール:12月21日-1月1日
立春にあたるインボルク:2月1〜2日
こんな感じだと思うけれど・・・。中国の暦とかインド暦までは手も頭も回りません。

By CarlCastel - Own work, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=140037746

っていうか、タイトルの弓の話何時するの?脇道それ過ぎた。


八節と言えば弓道

中学生のころ部活で弓道をしていました。弓道が好きだったわけではありません。私は運動が苦手で、スポーツは不得手です。それでも、中学時代は体の基礎体力をつけるため、運動部に入るように親や周囲からの無言の圧力がありました。
文化部へ逃げようとしても音楽は運動よりも苦手でしたから、そっちに入るよりましかな?と思い運動部の中で練習が一番楽な弓道部を選びました。

楽な道を模索して始めた弓道なので、練習もさぼってばかり、部活の友達としゃべったり、弓道場でのんびり日向ぼっこしていたり、やる気のなさが目立つ部員でした。

とはいえ、弓道には弓を引くお作法として「射法八節」っていうのがあったように思います。
足踏み(あしぶみ)胴造り(どうづくり)弓構え(ゆがまえ)打起こし(うちおこし)引分け(ひきわけ)会(かい)離れ(はなれ)残心/残身(ざんしん)
最初は「型」をひたすら練習していました。懐かしい。また弓引いてみたいな。でも、筋力ないから無理かな、それに乱視ひどいから的がまともに見えないんだよな~。

古代メソポタミアのアッシリアには弓を持つ神さまがいたそうです。

新アッシリアの有翼射手(英語版)の図像。右手をファラヴァハルの図像と同じように伸ばし、左手に輪の代わりに弓を持っている。
アッシュルを象徴するとみなす学者もいる。前9世紀または前8世紀。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7441053による
アッシュールの太陽十字
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=643623による


弓と稲荷

弓と言えば、伏見稲荷創建に関する説話が思い出されます。松村先生が何度も繰り返してお話してくださったので、とても印象深く神秘的で大好きなお話です。最後に伏見稲荷創建についてwikiから引用します。

「秦氏の祖霊として創建」の縁起[編集]

「イナリ」の縁起としては『山城国風土記』にあったとされる秦伊侶具のものが有名である。

風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき[注 5]。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。[注 6]— 逸文『山城国風土記』

(大意)風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。秦中家忌寸[注 7]などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を使って的として矢を射ったところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、この山に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。後になって子孫はその過ちを悔いて社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。

この秦氏について、もともと山城国紀伊郡深草近辺に在住していたことが見え(「秦大津父」『日本書紀』欽明紀)、また、

秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午[注 8]、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒[12]— 『稲荷社神主家大西(秦)氏系図』

とあり、秦氏と賀茂神社との関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し祈請すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ[12]、とも伝えている。

上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていたが[13]、『類聚国史』にある淳和天皇の天長4年(827年)正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた[9]。以降、『延喜式神名帳』には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次新甞の幣帛を受けた。

なお、この木を植える伝承は験(しるし)の杉として現代にも伝わっている。