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見たくなかった自分に出会う

note書初めやります!……と周回遅れの宣言をしてからもう1週間になる。どきどき、noteを開けて、自分の投稿作ろうとし、でも削除する。その繰り返し。

だって、他の方のnote書初めをよんでいたら、自分の書こうとしていた内容がたいしたもんじゃないと分かってしまって、どうしようもなくなったから。

(そうか。「書くことの出来る、大した人にわたしはなりたい」と心の奥で強く願っているのだ、わたし)

そう実感して、自分自身のことにショックを受ける。

わたしは、何よりも自分自身が書くものを自分で喜びたいし。
自分自身の記録として、自分が書いたものを読み返したいし。
自分の書いたものを、誰かに認めてもらいたいし。一緒に、思いをたどってもらいたい。
……そう思っていたと、ようよう実感した。そのことが、とてつもなくショックだった!!

「わたしをみてほしい!」と駄々をこねているような自分自身を、目の前に突き付けられたような気がした。

もっと。ゆるっと。「どちらでもいいですよ」みたいな感じに、やわらかで、やさしい人でありたかった。「お気に召したら読んでください」くらいの、謙虚な感じでありたかった。

それなのに、心の奥では。太文字ゴシック体でごつごつ、でかでかと。
私の書くものを読んでください」と叫んでいる。

なんなら「私が書いたもの、もっと読めや」みたいな、強引な自分が湧いていた。

ごう慢な自分に出会って、がっかりした。もうちょっと、やわらかでやさしい人でありたかった。


心の奥底で持っている思いは、自分自身が意識しなくても現実の世界で形になっていくという。だから、職業を仕事を選ぶときに、自分の真の望みをかなえるべく選択していることもあると聞いた。

だからなのね。報告書や論文を書くことを、私が職業として選んでいたのは。

だって、報告書は読者の注文によって作成される。読者の疑問に答えるために、知識と知恵を集合して書いていくのが報告書。

報告書の読者は、報告書に書かれた内容を元に、具体的な行動について計画することになる。その行動計画を立てるとき、読者と書き手の間で深い交流が生まれる。

論文は、自分の興味を追求し「ここまでわかったよ、みんな、確認してね」みたいな意味合いの文章。こちらも、必ず読者が存在し、じっくり、隅々まで読んでもらえて、感想や意見までもらえる。

自分が書いたものを読んでもらって。それを元に誰かと意見や感想を交わし、一緒にその先を作っていく。
そういうことを職業として選んでいたと、気づいた。


もっと読んでもらって、感想だったり意見だったり。
そういうのを交換していきたいと願っていたのね、わたし。

書いたものを通して、知らない誰かとも交流したいと思っていたのか。

ここにいる「たまこ」は、カウンセラーでもなく、流れの建設技術者でもなく。ときどき、昔の風景を懐かしんだり、日々の暮らしで生のままを生きてる私。

自分が思っていたことを、自分自身であらためて知って。
「読んでください」と思うなら、読んでもらっておみやげもっていけるような何かを書きたいなと、あらためて思った。

ごう慢な自分も十分に生きてると知って、たまには口調の荒れた微妙な自分もnoteの中に生息させていいかなとも思った。

……自分のごう慢さを目の前に見て、ショックを受けてはじまった今年。

でも、きっと。そういったことを思い出しもせず、今年を過ごす気がする。それで、いい。

思い出さなかったとしても、ショックを受けた事実は感触として身体の中に残る。そして、その感触があるから、また。「よりよく書きたい」と「ちゃんと読みたい」が自分の内に、いきいきと息づいていく。

自分で自分にハートブレイクした年の初め。そんな年もあるんだなあ。

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内容が、アレなので。タイトル上の画像どうしようかと悩んでみて。かわいい落書きを選んだ。

超絶苦いコーヒーに、練乳たらしたような達成感を味わった。

ソエジマケイタ(キャラ・写真・似顔絵)さんの作品たちにある、このくたっとした落書き、大好きです)

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