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「間違えて妊娠させちゃったとしても、流産したらある意味ラッキーだよね」という発言に、どう向き合うか

電車の斜めまえの席に座っていた若い男性3人組は、共通の友人について話をしていた。その友人は(軽はずみで)セックスした女性に妊娠させてしまったようだった。その後、二人は結婚することにしたけど、相手の女性は結果的に流産したという。詳しい内容は忘れてしまったけど、その話をきいた3人組のひとりは、「これ、めっちゃサイテーな考えだけど」と前置きしてこんなことを言った。

「もしノリでやって、間違えて妊娠させちゃったとしても、流産したらある意味ラッキーだよね」

みたいなことを。

わたしは手にしていたスマホを投げつけたくなった。だけどその衝動を抑えて、他の二人が返すことばを待っていた。「それはサイテーだよ」的なことを言ってほしいと少しだけ期待して。

だけど、そのうちのひとりは「サイテーだけど、それは正論」というようなことを言った。それで三人で笑っていた。

正論・・・・・・。悲しかった。何か言わないと、と思った。でも「それはサイテーです」とか言っても何も伝わらないし意味ないし、なんて言えばいいのかわからなかった。なんて言えばいいんだろうと、ただただ考えることしかできなかった自分も情けなかった。

これは一例で、こういう類の会話はいろんなところで耳にする。そのたびに、にんしん相談窓口の方のお話とか、性風俗嬢の方のお話を思い出しては、彼女たちのお話を聞いていながらそのことを伝えられないことが情けなかった。ただ話に口を挟む勇気がないだけのこともあった。

じゃあ、こんな状況にどう向き合っていくことが建設的なのだろうか。わたしも怒りたいとは思っていないし、当事者ではないのでわたしが怒ったところで何も伝わらない気がする。だから、どうしたら伝わるのか考えていきたい。

その前提として、そもそもどうしてこうした考えが蔓延しているのか、どうしてわたしはこんなに腹が立つのか、考えてみた。

まず男の人たちが冒頭のような発言をするのは、男性と女性では生殖機能に大きな違いがあることに大きな要因があるはずだ。当然ながら、男性は女性の気待ちを理解するのが難しい。これは仕方ないと言えば仕方ないことだ。それに女性だから想像力がおよぶのかと言えば、そうでもないと思う。

というのも、わたしが前述のような発言に腹が立つのは、中絶した人や、予期せぬ妊娠をした女性の話を聞いたり、ブログを読んだりする機会があったからだ。そういう機会がなければ、こんなに敏感になることもなく、聞き流していたかもしれない。

だからこそ、想像すると言っても難しいなあと思ってしまう。

きちんと避妊しなければ妊娠する可能性があるのに、なぜか「まあ、大丈夫だろう」と思ってしまう。いつ地震がくるかわからなくても防災の備えをしない、歩きスマホで取り返しのつかない事故を起こしうることを知っているのにやってしまう。それらと同じように、何でもかんでも、日常生活の中では無意識のうちに「自分は大丈夫」と思っている。

そんなわけで当事者をのぞき、男女ともに、中絶する人の気持ちを真剣に考えることは多くないと思う。それから買春する人のなかには、避妊せずに性交をする人もいるときくけど、その人は自分の知らないところで自分の子どもが生まれているかもしれないと考えることはないはず(でも、そういうことが実際に起こっている)。

何かしら「知る」、あるいは「体験する」機会がないと、妊娠を怯える女性の気持ち、中絶をしなければならない女性の気持ち、流産する女性の気持ちを想像してみろと言ってもかなり厳しいだろうなあ、と(人によって感じ方はそれぞれということもある)。

じゃあどういう伝え方をすれば、何を言えば、わたしが電車のなかで会った若い男性3人組や、その数週間前に電車で会話していたおじさんたちが、もう少し想像力を持てるようになるかな。しかも、たいていの場合、長々と説明するようなシチュエーションではないなかで。

なにかいい案があれば教えてほしいです。

--- ここでいったん終わり ---

ついでに、この問題にこじつけて、昨年仕事と読書会で感じたのことも書き残しておきます。痛感したことは、「想像力を持て」「想像力は無限大」みたいなことを言うけれど、「想像力には限界がある」ということ。

わたしたちは、空を飛ぶ車や宇宙人など、いろんなものを想像することができる。だけど、それは空を飛ぶ生物がいることや、宇宙の存在、人間以外の生物の存在を知っているから考えられることだ。

結局、知っていることからしか想像できない(そうじゃない事例もあるかな?)。

法医学者のインタビュー記事で、電柱から飛び降りた形跡をみつけ、その人がなぜわざわざ電柱から飛び降りたのか考えるケースがあった。みずから電柱から飛び降りるってどういうこと? その法医学者は考えられることの一つとして、薬物使用を挙げていた。

保健師の方の著書のなかで、発達相談の予約を3回連続当日キャンセルするダウン症の子どもの母親のエピソードがあった。なぜ、みずから予約しているのに何度も直前にキャンセルするのか?保健師が家庭訪問をしてみると、母親は「ダメな母親と思われているのでしょうね」と言い、「情けないけれど『明日になれば夢が覚めて、子どものダウン症は夢だったとなってくれないか』と願ってしまうの。紹介状を受け取れば、子どもは障害児だと認めるしかないでしょ。そこまで強くないのですよ、私は。(後略)」と涙ながらに話したそうだ。

とにかく、わたしにとっては、「そんなこと、言われなきゃわからなかった」というようなことがいっぱいある。自分が過去に言ってしまったことばを反省することも多々ある。

昨年一年間、細々とつづけていた友人たちとの読書会で取り上げたいくつかの本からも同じようなことを学んだ。

触れたのは、臓器移植、献体(献血や献眼も含む)、検死、中絶および死産といったテーマ(特にコンセプトがあるわけではなかったけど、生と死の線引の難しさを取り上げたものになっていた)。

論旨とはずれるかもしれないけど、それらの著書で共通して指摘されていたことのひとつが、「プロセスや手続き、“その後”に対する想像が欠けている」というようなことだった。

たとえば、臓器移植。臓器移植といえば、死んでもなお他者への貢献ができるというイメージや、臓器移植によって病気の子どもが救われるというイメージが強い(少なくとも私はそれしかイメージがなかった)。それはそれで事実。だけど、「死の判断はどうやってなされるのか」、「臓器移植をするとなればドナーや医師にどんな影響があるのか」、「臓器移植をしたあとのレシピエントの生存確率はどうなのか」ということまで考えることはなかった。

中絶もしかり。中絶すれば妊娠しても子どもを産まなくていいということは知っていたけれど、中絶を選択するときにどんな気持ちになるのかとか、中絶をする際にどんな手術が行われているのか、考えたことはなかった。

人の思考キャパシティは有限だから当たり前と言えば当たり前かもしれないけど、具体性を伴った想像ができていないのだ。

一生無関係で済む可能性も高いことを、みんながそこまで深く考える必要性あるのかな……と思う気持ちもある。ただ、それだけ普段、深く考えずに(ときには大義名分だけをみて)物事を判断しているんだなということには自覚的でありたい。

そんなふうに、知ること、想像力を働かせることの大切さと、その難しさを感じる日々だ。


花を買って生活に彩りを…