日本人と江戸の村掟:現代に続く深層心理

江戸時代の村は、高度な自治と民主的傾向を持つという。
それが本当なら、江戸幕府を中心とする封建的な世界で独特な存在である。
そもそも村の起源はどこにあるのだろうか。

中世後期から、全国的に惣村、つまり村人たちが自治的に運営する村が生まれました。
惣村は、年貢の徴収・納入を村で請け負い(地下請・百姓請・村請)、固有の財産(惣有財産)をもち、掟を定め(惣掟・村掟)、警察・司法権を行使し(自検断・地下検断)、重要事項は村寄合で決定しました。
そして基本的に、江戸時代の村も、中世の村で育まれた自治能力を継承していました。
年貢村請や警察権、入会地や「村持地」などと呼ばれる共有耕地、村の運営費(村入用)の徴収、また、村掟(村法)の制定、寄合による村の方針決定など、ほぼ中世の惣村のかたちを引き継いでいるのです。

(「百姓の力」渡辺尚志)

ここで重要なことは、年貢の徴収・納入を村で請け負う(村請)であろう。
ここから年貢の連帯責任制が出てくるが、これによって多様な側面で助け合う契機ともなり、結束が強まり、共同体としての村が生まれてくる。

さらに民主的傾向があるとはどういうことであろうか。
象徴的な選挙(入札)について見るとつぎのとおりである。

江戸時代の村には、いくつかの民主的傾向が出現したが、その中でも最もわかりやすい例が選挙である。
江戸時代後期には多くの村が、村政運営を担う村役人(村方三役)を入札(いりふだ)と呼ばれる選挙で選んでいた。
現在の村長、助役、監査委員にあたる名主(庄屋・肝煎)、組頭(年寄)、百姓代からなる村役人は、主に本百姓(石高持の戸主)から選ばれ、
年貢負担の割当て、入会地の利用や農業用水などや周囲の山野の管理から道路整備、治安防災、紛争処理まで幅広い仕事を共同で担った。
現在の行政機関でいえば、税務署、町村役場、警察署、地方裁判所の役割を果たしていた。
村政は独自に制定した村掟(村法)に基づいて行われた。

(「江戸の選挙」から民主主義を考える、柿崎明二)

村の自治は、徐々に歴史を追うほどその範囲が広くなっている。
今でいえば、税務署、町村役場、警察署、地方裁判所までの範囲を村役人と寄合で運営されていた。
それに比例し重要性が増したのは、特に村掟だ
村掟は村の構成員による寄合で決められるが、その効力は非常に強く作用したという。

代表的な村掟を一つあげてみよう。
寛文二年(1662)、近江国蒲生郡の平野部に位置する三津屋村で定められた村掟である。
・どのような農作業であっても、また柴木集めでも、日が暮れてから取り入れをしてはいけない。止むを得ず行う時は、松明を灯して行うように。
・盗人を仕留めた時は褒美として米一石を遣わす。奉公人や子供であっても、盗みを働いたと思われる者を宿泊させてはいけない。
・二月一日から十一月一日までの間は、木の葉の搔き集めをしてはいけない。もし盗み掻きした者は、米五升の罰とする。
・田の畔や池回りなどの草を刈ってはいけない。もし違反した場合は子供であっても米五升の罰とする。
・牛馬に田畑の作物を食べさせた時は、米五升を地主に払うこと。多量に食べさせた場合はそれ相応の額を弁償すること。
・不審な者については一夜であっても宿泊させてはいけない。
・他村の者と、何事についても争論をしてはいけない。
生産物と林野資源に対する窃盗行為は、近世村の掟の中心的テーマだった。
とくに、農作業を行う時間帯を日暮れまでとした第一条や、二月一日から十一月一日の間を木の葉採集禁止期間と定めた第三条など、時を区切って村民の行動を制限し、一律行動を強制するところに、村掟の特徴がよく表れている。
この村では米五升が制裁の標準だったが、近世村では掟に違反した者に対する制裁を取り決め、実際に執行していた。
各地の村掟を読んでみると、制裁の種類はおおむね追放刑を頂点に、付き合い禁止(村八分)、見せしめ刑、罰金刑から構成されていた。
犯人を村から追い出す追放刑は、悪質な盗みや村の権益毀損者に架されることが多く、付き合い禁止は追放に至らない村益毀損者に対して発動されることが多かった。

犯人の摘発方法としては、現行犯は別として、広く「入札」(投票)や「家探し」が行われていた。
村によっては、犯罪者を摘発するために庄屋宅門前に入札箱を常置するところや、順番に竹筒を回して投票させる村もあった。

(村 百姓たちの近世  水本邦彦)

村の秩序が、個人の権利より、なにより優先されている。
村は当時、国家のようなほぼ完結した世界であった。
そしてその濃密な閉塞空間で、ルールである村の掟に縛られて村民は生きていた。

幕末の時点で人口の8割前後が農民であったという。
そして、当時ほとんどの日本人は各々の村の掟に縛られ、常に仲間の顔をみながら生活していたことになる。
明治維新から150年ほど経つが、このときの体験は世代を超えて、今も深層心理に残り、日本人の規範となっているに違いない。

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