この世界に神が存在しないという事実

 一つ一つ物事を丁寧に自分の頭で考え、検証できる人は、遅かれ早かれ、「誠に残念なことなのだが、この世界に神は存在していない」という、シンプルな事実に気づく事を願っている。

例えば、「完全に細胞を破壊された死者が、なにもないところから細胞を再構成して、私達が認知できる世界で、生前の姿で復活した」という、神の奇跡がまだ一度も、現実世界で起こったことがない。

生き返ったという人がいるなら、その人は、生き返ったのではなく、実際のところ消滅していなかったのである。詐欺かマジックの類。もちろん、タネはつねにある。良くも悪くも、それは個人、もしくは集団の人間が見せた、あるいは単に信じ込ませた「マジック」なので。

ところが、高度にVRが発達した未来では、その仮想空間の中での再現は可能になるだろう。だが、それは本当にこの世界に死者が復活したのではなく、仮想世界という「人間」が作り出した世界に、人間によって再構成され、さも生きているように話したり動いたりできるデータに過ぎない。現実世界にこんにちは、してくれるわけではない。

神が存在していたほうが、そりゃ楽だった。おそらく世界の苦しみは、最小化、いやそもそも「苦しみ」などという言葉も存在しなかったと思う。
そもそも、「死」とか「悲しみ」とか「苦しみ」などという概念などなかっただろう。

私が、神がいないという事実で、一番残念なことは、存在しないものに対して「怒ったり、悲しんだり、好きになったり」できないし、存在しない相手に「そろそろいい加減、でてこい」とか、「なぁ、アホなことはもうやめてくれないか」とか、「自分がやったことに責任を感じているのか?」と、問い詰めたり、「ちょっといくらなんでも、常識がないんじゃないの?」とか、あまり「与太話で人を騙すのはやめてくれ」と、諭したり、注意したり、いや物理的に戦ったり、できないことだ。

私が「神が存在しない」という事実に、無力感に打ちのめされそうになるのは、もしも存在していたら、「どうしようもない屑」に間違いないので、さんざん苦しめられた人間たちは、神を私達の面前に引きずり出して、全人類で公開裁判でも行うべきだったし、立ち向かうこともまだ可能だったろう。

ところが残念ながら、神は存在しないので、批判することもできないのである。責任を取らせようがないし、責任を追求することは不可能である。だがそれは人間が無力なのではなく、「存在しない」ので、何のリアクションもないのである。

だが、悲観することはない。そのような神を作り出しただけでなく、「信じてしまった人間=過去の私達の愚かさ」批判することはまだできる。そして、その存在していないものを「自分だけが信じる」のではなく、何らまともな議論などなく、創作したものを「信じる者は救われる」という言葉で偽りつづけ、都合の悪い事実が出ると、「試練を与えておられる」などという出鱈目を言って、「嘘がバレない」「騙し続ける」ことだけを考えている「詐欺集団」や、「詐欺にひっかかっている被害者」兼、「善意から詐欺に加担してしまう犯罪者」を生み出すマルチ集団を告発し、少なくとも、他者から金を巻き上げない無害な同好会に、戻すことは可能だと思う。

信じるものは救われるのではない、信じるものは、たまたま何かを達成するとか、信じるものは努力するというのが、事実である。実際のところ、それは何か名前が与えられるべき存在でもなく、またそれを主張する集団に、○○教などという、ご立派な名前など必要もなく、誰でも「何か」を信じたければできるし、勝手にすればいいだけのことである。そこに「お布施」など必要ない。仮に「お布施」といわれている、信者間のみで必要なものがあるのなら、それは「お布施」ではなく、みなで分け合うべき、団体参加料のようなものである。いや、もう答えなんか全て出ているし、まだ出ていないならこれから先も、少なくとも宗教から「出るわけ無い」ので、そろそろ、
宗教はただの、個人的思い込み=想像」ということを前提に、その創作団体、あるいは愛好家集団を、規模の大小はともかく、扱うべきだろう。

私が一番、どうでもいい会議の一つが「宗教者会議」とやらであり、そして宗教団体が起こした問題について、一番語るべきでない「有識者」は「他の宗教者である」。

マルチビジネスが起こす様様な問題について話し合う時に、マルチから脱退した被害者(元加害者でもある)ではなく、「他のマルチのリーダー」を連れてきているのだから。 たしかに「現役の有識者」だが。いや、なんで、そこで「なにかの専門家のごとくふんぞりかえっている」のか? そして、周りが「なにかのまともな知識を持つ専門家として扱っている」のか、私はそれが、本当にわからない

「現役のマルチビジネスリーダー」として、声は合成して、顔にはモザイクを掛けるぐらいすべきだろう。だが、わたしたちはもはや「宗教」と、その「指導者」に、マルチビジネスと、マルチのリーダーとみなすこと以上の、多大な「権威」を与えてしまい、良くも悪くも、生まれたときから常に、このマルチビジネスに洗脳されてきているので、完全にこの洗脳から自由になることは難しい。

まぁ、どうせこうなると思っていたが、結局、

統一教会を国は解散させられない。できない。

なぜなら、あなたたちは結局のところ、宗教というマルチビジネスを、そのまま認めているだけでなく、保護しているからだ。

そして、マルチビジネスの理解者たちは
「ほら、、できるわけないだろう? おまえたちのやったことは迫害だ!
弱い者いじめにすぎない」と、

宗教という人類全体への洗脳を肯定し続けている




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?