茶色い瞳 -repost-
【詩】
今日が消えてゆくのです、次から次へと。
その男はイスに座るなり、唐突にそう言った。
見た目にはこざっぱりとした今どきの会社員風で、26~27歳くらいだろうか。
今日が消えてゆくのです、目の前から遠ざかって。掴もうとして手を伸ばしても届かない。追いかけても追いかけても逃げてゆくのです。
僕は促すように二度頷いた。
朝、目覚めると確かに今日はそこにあって、太陽は東の空を昇っている。だけど、通勤電車の吊革につかまって、上司につまらない小言を言われて、パワーポイントで資料を作っているうちに、いつの間にか、さっきまでそこにあった今日が、今日が消えてゆくのです。毎日、毎日、毎日。
そうですか。いくつか質問をしてもいいですか。と僕は男の震える手を見ながら言う。
まず、コーヒーは好きですか。
はい、コーヒーは好きですが、酸味の強いタイプは苦手です。
そうですか、僕は酸味のあるほうが好きですね。
それが何か関係あるのですか?
いえ、好みのことを聞きたいのです。
好きな食べ物は何ですか?
玉ねぎの入った餃子が好きです。
玉ねぎ、ですか。珍しいですね。キャベツではダメですか?
キャベツも白菜も嫌いではありません。ただ、玉ねぎの入った餃子が好きなのです。
そうですか。では、味噌汁の具は何が好きですか。
かぶの味噌汁が好きです。ただ、冬場しか食べられないですけど。
ああ、かぶはいいですね。あの独特な甘さが何とも言えませんよね。
あと、絹さやも好きです。こちらは夏だけですけど。
いいですね。夏の香りが口のなかに広がりますね。
なんだか、味噌汁が食べたくなってきました。
最近、味噌汁を飲みましたか。
男は言葉をつまらせて、僕を見つめた。
たぶん、ふだんから昼に定食屋で食べているはずです。
たぶん。
よく覚えていないのです。確かに味噌汁は目の前に出されたはずなのです。ただ、それが何の具材が入っていて、どんな味だったか。
男は手の震えを押さえるように両手を結んだ。
そうですか。では、最近、おつきあいをしている女性はいますか。
男は少し怪訝そうな顔をして、それが何か関係があるのですか、と訊いた。
あなたのお話を聞きたいのです。もし、話したくないならば、無理されなくてもいいですよ。
彼女はいません。前につきあっていた人と別れたのが二年ほど前です。
そうですか。それでは、いま、好きな人がいますか。
よくわかりません。
よくわからない。
好きという感情がどういうものだったのかが、よくわからないのです。
例えば、ああ、この人の笑顔が素敵だな、とか、この人の声としゃべり方を聞いているとほっとするとか、そうしたことはありませんか。
男の瞳に小さくひかりが宿る。
声・・・声を素敵だなと思う人はいます。
そうですか。どんな方でしょう。よろしければ聞かせてもらえませんか。
毎日、仕事帰りに立ち寄るカフェの店員さんです。
ほう。では、注文のやり取りがあるのですね。
はい。でも、レジが二つあって、二回に一回は別の人にあたります。
そんなとき、どんな気持ちがしますか。
胸のなかをサーって、サーって何かが落ちてゆきます。
寂しい気持ちですか。
寂しいというよりも何かが落ちて流れていってしまう感じです。
その人は素敵な人なんですね。
はい。
どんな感じの人か気になります。
男は目を細めて夢想するように心持ち視線をあげて、ぽつり、ぽつりと語った。
黒くて長い髪をひとつに結わいて、細い指が意外としっかりとしていて、涼しい顔をして笑います。でも、そうした外見ではなく、声なのです。張りと艶のある声で、少し抑えた感じで話すのです。それが--。
それが。
おかしな話なのですが、耳に届くのではなく、直接胸のなかに入ってくるのです。
直接。
だから。と言って男は初めてぎこちなく笑う。
だから、胸のなかに入ってくる声と、目の前で話す彼女の口元とがたまに合っていない気がして、不思議な気持ちになるのです。なんというか、彼女の声が彼女から独立した存在に思えるのです。
そうですか。彼女の外見も一致して好きになれるといいですね。
好き? 男は驚いたように僕を見る。
好きなのではないですか?
これは、好きなのですか。
それは好きだと思います。恋と言ってもいいかもしれません。
恋。
男の表情は始めに比べ、だいぶやわらいでいる。
そう、恋です。
そうなのですね。
僕たちは冷めたコーヒーに口をつける。これは彼の好きな酸味のないタイプだ。
今日は、今日が消えてゆきますか?
男は首を傾げて考える。
そう言えば、今日は、今日が逃げてゆきませんね。
そうですか。今日はいろいろなことを思い出したからかもしれませんね。酸味の少ないコーヒーや玉ねぎ入りの餃子やかぶや絹さやの味噌汁や、カフェの素敵な声をした店員さんのこと。まわりを見渡せばいろいろなことに気づきますね。
男はまわりをぐるりと見渡して言う。
このお店、こんなに混んでいたのですね。それに--
それに?
あなたの瞳の色は少し茶色がかっています。
あ、そうですか。と言って僕は苦笑する。
男もつられて大きくわらう。
tamito
作品一覧へ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?