しなやかな腕

【小説】

高速道路を降りて国道に合流し、最初の信号でティモールブルーのコンバーチブル・クーペは停車した。日本列島のちょうど真ん中に位置する盆地には、もう秋の空気が充ちている。これから向かう高原のホテルは、ここよりさらに5度ほど気温が低いだろう、と彼は思った。

後続のオートバイが料金所を抜け、低いトルク音を響かせて、追い越し車線に並んだ。濃紺のデニムにライダースブーツ、白いTシャツに白いヘルメットを被った少年が、400CCの単気筒にまたがっていた。ヘルメットの下に見える首は細長く、シャツの袖から伸びる腕は浅く陽にやけ、しなやかな筋肉に覆われている。無駄な脂肪はなく、かといって痩せすぎず、しっかりとした骨格の上にやわらかな筋肉がバランス良くついている肢体は、豹のような食肉類の獣の美しさを彷彿とさせる。少年期から青年期へと移行する過程のほんのわずかな時期特有の美しさだ。

かつて自分もあのようなしなやかな腕をしていた、と彼は思った。週2回のスポーツジム通いで適度な運動を続け、この年齢にしては体型を維持しているつもりではあるが、わずか2メートル右に並ぶ少年の腕との違いに、彼は抗うことのできない年齢の差を感じた。

ぼんやりと少年の腕を見るともなく眺めていると、にわかに筋肉が隆起し、クラッチレバーが握られた。ギアがニュートラルからローに入れられ、クラッチレバーが放たれると同時に、400CCの単気筒は走り出した。前方の信号機は青に変わっていて、少年のオートバイはギアを小刻みに上げつつ、次第に遠ざかっていく。

彼は小さくなっていくオートバイの後ろ姿から視線を上げた。まだ夏の名残の真っ青な空の上層に、いわし雲がぽっかりと浮かんでいた。

目指すホテルのある高原へと至る道はいくつかあり、彼はもっとも遠回りとなり、ふたつの峠を越えるルートを選択した。時計の針は午前11時を差しており、約束の午後3時までにはたっぷりと時間があった。

国道を離れ高原へと向かう県道に入ると、民家と田畑の調和が美しい田舎道がしばらく続く。彼はスピードを緩め、点在する家々の垣根や庭先の花木を楽しみながら車を走らせた。家と家の間隔が広がり田畑が狭くなってくると、突然両脇に山が迫り急斜面にさしかかる。彼はシフトをふたつ落としてアクセルを軽く踏み込んで対応した。はじめのうち大きかったS字カーブは徐々にきつめのRの連続となり、シフトの上下とアクセルコントロールで、彼はカーブミラーの先を見ながら理想的なコース取りでの走りを楽しんだ。

高校を卒業して免許証を取得してから、何度この道を走っただろう、と彼は考えた。20年前、この道はまだ未舗装の箇所も多く、スピードの乗ったカーブの先がダートでタイヤが流されそうになったことが何度もある。あの頃よくこのコースをともに走った友人のひとりが、今日、高原のホテルで結婚式を挙げる。8年間の事実婚を経ての38歳での初婚となる。

彼は久しぶりに会う友人たちの顔を一人ひとり思い浮かべた。

昨夜遅く、彼の携帯電話に友人の渡邊から連絡が入った。渡邊は、今日の式に出席する高校の同級生のなかで、彼を含めた東京に住む3人のうちのひとりだ。

電話に出ると開口一番、「お前、どのルートで行く?」と渡邊は聞いた。

「まだ決めてないけど、やはり松本まで行ってビーナスラインを走破かな」

「諏訪湖で高速降りればすぐだぜ。でもお前はやはり松本なんだ。ちなみに"お嬢"は裏側から登ってくるってさ」

「大門街道か。関越道は混まないし現実的な真理らしい。真理に電話したのか?」

「もちろんしたさ。24時にかけてまだ仕事中だぜ。売れている雑誌の編集長ともなると忙しさが違うね」

「昔から根を詰めるタイプだからな」

「3時に約束したから。式の前に再会を祝して一杯やろうって」

「わかった。間に合うように行く」

「ドライブを楽しみ過ぎて遅れるなよ。遅れたら、俺が"お嬢"を落としているからな」

「ナベ、お前が真理を落とせるなら20年前に落としているよ」

「そりゃそうだ。"お嬢"は誰のものでもない"お嬢"だからな」

誰のものでもない"お嬢"か、彼は視線をカーブミラーの先に置きながら75Rの右曲がりのコーナーを抜けた。確かにあの頃何人かの同級生が真理に告白しては玉砕していた。次のカーブはヘアピンだった。彼はコーナーに向けてギアを急速に2速まで落としつつ、カーブミラーの向こう側に20年前の自分を見ていた。

ひとつめの峠に差し掛かり、彼のクーペは尾根沿いに南下するルートへ右折した。"標高1660メートル"と表示があり、背の高い木が少なくなり、左右のカーブではそれぞれに麓の町が見下ろせるほど景観が広がった。勾配とRのきつい登り坂を、神経を集中させて車を操るときのドライバーズ・ハイの状態から放たれ、彼の思考は目の前に広がる風景を認識することに戻された。

インパネ内のデジタル時計は12時15分を表示している。中央道の混雑を予期して早朝に杉並のマンションを出発した彼は、急に空腹感を覚えた。先ほどの峠のレストランで昼食を摂るべきだったかな、彼は来た道を戻るか次の店を目指すか考えをめぐらせた。次のレストランまでは30分ほど車を走らせなければならない。しばらくそんなことを考えながら走り続けていると、道の左手に眺望の開けた休息所が見えた。彼は、ウインカーを点滅させて駐車スペースへと進入した。

北東方面に、上田、小諸の台地をかすめて、澄んだ空気のなか浅間山がくっきりと浮かび上がる。彼は、クーペを降りて崖の端まで歩を進めた。彼が育った街からは直接浅間山を見ることはできず、原付二輪を乗り出す16歳までは、自分の意志とは別に家族や学校の都合でたまたま浅間が見える場所まで行くことがあり、そのたびに、この美しい姿に魅了された。

ふと、視線を駐車スペースに戻すと無秩序に停められた3台の国産車の向こう側に、見覚えのある姿を捉えた。400CCの単気筒に半ば体を預けるような体制で立ち、濃紺のデニムにライダースブーツ、白いTシャツの少年がアルミフォイルに包まれた握り飯を手に持ち、しきりに顎を動かし咀嚼していた。ヘルメットを外した顔は、先ほど信号待ちのときに彼が想像したよりもなお少年の面持ちだった。

少年は、咀嚼した握り飯を一気に飲み込もうとして胸を叩いている。彼は車に戻り、バッグからペットボトルの麦茶を取りだし、少年に近づいていった。

「飲みなよ」ペットボトルを差し出しながら彼は少年を観察した。

18か19くらいだろうか。胸板の薄さに比べ肩の張りはしっかりとしている。身長は170センチと少し、体重は56~7キロだろう。首と手がやたらと細長く見えるのもこの年頃の特徴だ。

うぐぐ、と少年は自力で食道から胃へと咀嚼された米を落とそうとしながら、彼を見た。

「飲みなよ、ペットボトル開封してないから」

少年は軽く会釈をしてからペットボトルを受け取り、半分ほど喉に流し込んだ。

「ふぅ~、死ぬかと思った」デニムのポケットから少年はハンカチを取りだし、額の汗を拭った。

彼は、少年の後ろのオートバイを見ていた。まだ新しい。始動はキック式で黒い車体にSRと書かれている。彼が若い頃とほぼ型を変えていないオーソドックスなYAMAHAのオートバイだ。

「買い忘れてしまって、飲み物。どこかに自販機があるだろうと思ってここまできたんですが、急に腹が減ってしまって」少年は言い訳をするかのように、早口で言った。

「でも、ありがとうございます。死ぬかと思った」

「なぜ、このオートバイを選んだ?決して扱い易くはないはずだが」彼は少年の言葉を受け流して聞いた。

後ろを振り返りつつ少年は答えた。

「オートバイ・・・そうなんですよね。ほかのバイクと違って"オートバイ"という言葉が似合うんですよね。乗っていたんですか?」

少年の質問には応えず、彼は視線を北東の風景に戻した。つられて少年も顔を向ける。

「あれ、浅間ですよね。きれいな山ですね」

彼は少年に向き直り言った。

「浅間をバックにそのSRと一緒に撮ってやる。カメラはあるか?」

「携帯ならあります。ぜひお願いします」

少年はオートバイの角度を変え、携帯電話のカメラを立ち上げ、彼に渡した。彼は携帯電話の画面に映る少年とオートバイ、そして浅間山の構図を確かめながら「撮るよ」と声を掛けた。携帯電話のカメラ機能特有のシャッター音とともに、3つの被写体はデジタルデータとして保存された。

画面には爽やかな笑顔の少年がオートバイの後ろ側に立っており、その右後ろに浅間の稜線がきれいに伸びている。モチーフとしての主体は浅間山とSRだな、と彼は満足したかのように片頬で小さく笑った。

(続く)

※4回連載の第1回です。

 第2回 「長く曲がりくねった道」

 マガジン『20年の不在』に収録しています。

tamito

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#小説 #20年の不在

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