坂本さんの右腕

【詩】


坂本さんのことを覚えていますか

そう大学2年の夏にゆくえがわからなくなった

あのとき彼と最後に話したのはどうやら

僕だったらしいのですよ

僕は大学の図書館へ行くために駅に向かい

ホームでばったり坂本さんに会ったのです

ベンチに腰かけている彼に僕は声をかけた

「こんにちは」「暑いですね」

「どちらに行かれるのですか」

そんなあたり障りのない言葉だったはずです

「ああ君か」「今日はちょっと暑いね」

「なに銀座の画廊まで知人の絵を見にね」

たぶん彼もそんなとりたてて意味のない

言葉を返したはずなのですただ

思い返すと不思議なことがありましてね

彼の右腕がなかったような気がするのです

チェック柄の黄緑色の半袖シャツから

長細い左腕が伸びて組んだ脚の上に置かれ

三島由紀夫か誰かの文庫本を手に持っていた

僕は彼の左側に立っていたから

あまり気にしていなかったのですが

やってきた電車が急行だったので

彼がさきに電車に乗り込んだのです

その後ろ姿に右の袖がゆらゆらと

ハンガーに吊るされた洗濯物のように

ゆらゆらとゆれていたのです

なぜかそれがとても自然なことのように

そのときは思えてしばらくののち

彼の消息を知らないかとクラスの誰かから

連絡が入ったときにふと思い出したのです

ああ坂本さんに右腕がなかったと

でもそんなことってあると思いますか?

数日前まで坂本さんは右腕とともに

何人かの級友と会っていたのです

それとも級友たちの誰もが坂本さんの

右腕がないことに気づかなかったのか

いやそんなばかな話はありませんよね

いや待てよそもそもの始まりから坂本さんの

右腕は果たしてあったのでしょうか

そう考えてみると僕は記憶に自信がありません

あなたは坂本さんの右腕を見たことが?

そうですかやはり記憶は曖昧ですか

坂本さんはちょっと変わった人でしたから

右腕がなくてもそこに僕らの

目がいかなかったのかもしれません

彼は本ばかり読んでいたでしょう

歳も三つほど上だったから僕ら

遠慮してなんとなく彼を遠巻きにしていた

彼はそんなことはお構いなしに

いつでも少し気だるそうにして

本の頁に目を落としていた

もし坂本さんの右腕がそもそもなくて

僕らがそれに気づかなかったとしたら

彼のアイデンティティーはいっさい外見になく

あの内面から醸される知性や理性

独立心にあったのかもしれませんね


そういえば僕にも欠けたものがあります

どうやら怒りという感情がないらしいのです

幼少の頃は気がつかなかったのですが

小学校も学年が進むにつれて

級友たちの大きな声や人を罵るようすに

これはなんだろうと思うようになりました

そんなとき僕は悲しくなることしかできず

あまりに僕が泣くもので

両親が病院に連れていったのです

面接でのさまざまなテストを受け

何回かにわけて頭のレントゲンを撮り

医者は怒りの感情の欠損と結論づけました

脳内の電気パルスがうまくつながらず

僕はうまく怒ることができないと

接触の悪い電気コードみたいなもので

ひとつの個性のようなものだから

あまり気にすることもないと医者は言いました

だから僕は怒りという感情を自分なりに

研究して頭で理解をしました

いまでは少しだけ怒ることもできるんですよ

このケースは顔をしかめて黙り込めって

そうすると相手が僕の怒りをわかってくれる

相手にそれが伝わるとホッとするのです

だから僕の怒りは傍から見て長続きしない

ええ生きていく上で特に不都合はありません

だけど時おり僕の欠けた怒りはどこへ

どこへ行ってしまったのかと思うことがあります

だから思うのです坂本さんももしかして

欠けた右腕を探しているのではないかと

右腕を探して日本中いや地球の裏側まで

旅をしているのではないかと

そんなふうに思ってしまうのですよ


ああ今日も暑い日ですね

突然呼び止めてすみませんでした

もしどこかで坂本さんの消息を聞いたら

僕に連絡してもらえますか

どうしても会って確かめたいのです

坂本さんの右腕がそこにあるのかどうか

ではあなたもお気をつけて

何かを損なわないようご注意を


tamito

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#詩 #坂本さんの話

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