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身体世界と非合理性

今日、歯医者に行った。

最近奥歯が沁みることが多くて虫歯かなと思ったので、定期診断には少し早かったけど予約していた。

私はそこまで歯医者に嫌な思い出とかはなく、あのミニマルな装置空間の中で治療という目的を最大限達成しに行ってる感がむしろ好きだ。
あのうがいをするところのデザインとか、なんかぐっとくる。

人間の口内という、自分のですら見にくくてよくわからない部位を、あそこまでお互いに負荷をかけずに見せられる(もしくは対処できる)というのはすごいと思う。

そういうことを考えているので、治療で歯をガリガリ削られたりめっちゃ鋭利な道具でグイッとやられたりしていても割と冷静、というか気もそぞろである。

そんな中、今日はお医者さんの動きに意識を集中していた。
面白かったのは、彼らのやっていることがまるで図画工作みたいに思えてきたことだった。

動作がおおざっぱとかそういうことではなく…身体って結構、圧倒的に物理的な存在というか、単純なものなのだなと。

歯の治療なのでそもそもそんなに複雑なことはしない印象があるが、内臓の手術にしろ脳外科の仕事にしろ、切って貼って縫って、みたいなそういう普通に自分たちもやってるような動作の対象が身体になっただけで、案外わたしを構成している物質もただの「もの」なのだなと。
神経が通っていて、文字通り思いのままに動かしているのが常だから、なんだか複雑で神聖なものだという思い込みがあったということか。

ただし、それは目に見える部分の話であって、見えないところで(もしくは極小の世界で)私たちの体内では細胞や何とか物質が絶えず移動し、作用し、本体を生かしている。
さらに、お医者さんたちは鍛錬に鍛錬をかさねてその技術を得た上で治療をしてくれる。
なので、実質的にはそんな図画工作みたいな単純な話では、もちろんない。

それは重々承知だけど、やっぱりそのシンプルさに感動してしまった。

ちなみに奥歯の痛みは虫歯ではなく、歯の磨きすぎによる知覚過敏でしょうとのこと。
あんまりナーバスにならずに、少し複雑な機械をメンテナンスするような気持ちで、丁寧に手入れしていけばおおかた問題ないのだろう。

歯医者のあと、イサム・ノグチの美術展に行った。

北京ドローイングという作品群が印象的だった。
毛筆のシンプルなラインで様々な人を描いているのだが、その線が本当に本当に有機的!だった。
これは参った、と思いながら見た。

それは、一筆書きの線の集まりである。だけど、それ以上に人間の脚であり、胴体であり、顔だった。

言葉にするのが難しい。
芸術は、一本の線に既に立ち現れているものなんだなあ…。

線の芸術について、いつも思い出すのはミッフィーを描いたディック・ブルーナのことである。

以前開かれていたミッフィー展を見た方はご存知かもしれない。ミッフィーたちのあの少し太めの線は、ただの線ではない。

ペンからあふれるインクを少しずつ垂らしていって、できた点をひたすらつないでいく、気の遠くなるような作業を繰り返してできる「線」なのだ。
この映像を見て、ミッフィーの世界のあったかさってここから来ているのか、と思った覚えがある。


そういう優しさとか、非合理性みたいなものを追究していくほうが、性に合ってる気がする。秋の夜長である。


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