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野生との平行線

野における人間のあり方について考えている。

あり方、というほど大それたものではなく、単にその中に人がいる、その立ち振る舞いについて と言った方がいいかもしれない。

私の実家は一応23区の、都会の一端といってもいいところにある。
でもたぬきやテンみたいなのとか、蛇とかツバメなんかもたまに見る。
まあ知らないうちに、そういう「都会にいなさそうな生き物」も実際には多くが都市で生きることに適応し始めている、ということなのかな。

「都会に住んでいる」というのは、人間だけが抱いている幻想、言って見れば願望に近いものなのかも。

人間の文明がここまで発達したのは、ひとえに集団で知恵や道具を使って種を守ることができたからだ。文字、武器、文化などは、古代からの野生に対する盾のようなものであったのだと思う。

その無意識の前提の中で、私たちはある種、自然そのものとか野に生きるものたちに対して根源的な畏怖を覚える。

だから都会は、現代における要塞なのだと思う。
しかしそれは確固たる存在というよりは、住む人間の、意識から発生する行動により大きく形を変える流動的なものだ。

だから都会という最高に人間的な空間において、野生の生き物とか、灼熱の太陽とか、自然災害に出くわしたときに、うろたえ動揺する。

さらに、生の自然に触れることよりも、擬似的な自然の中で
あたかも都会(人間的なもの)から遠ざかっているような、一時的な安息を得ることを好んだりもする。
これはこれで高次的な認知の表れとも言える。

その一方で、この実はもろい概念を打ち破って、自然は長期的には人間を凌駕する。

人間は自然から離れようとする。自然は人間を追いかけてくる。
二者の間の距離は変わらず、平行線のまま進んでいく。という感じがする。


などと、大自然の中で1日中プール遊びをする子らを見て考えてました。

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