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エッセイ|100年後の未来のために

100年後の未来、
頭を捻らなくても、
そのとき私は既にこの世を後にしているだろうと言える。

どんな人生を送ってどんな最期を迎えたのだろう。
少し立ち止まって想像してみる。


・・・正直、わからない。

「その日になってみないとわからないでしょう?」
今はそう言って逃げさせてほしい。

「どんな人生を送ってどんな最期を迎えたいか」なんて確固たる理想、
今の私にはまだない。


可能性を書き出すことは当然できる。
他人の生き方や価値観をそのまま拝借すればいい。

家族、友達、同僚。
小説、エッセイ。映画。
報道。

世の中にはありとあらゆる人生のテンプレートが転がっている。


でも、すごく不毛な気がする。

他人のコピペをしていては、
私という人間が生きた「証」にはならないじゃないか。

・・・「逃げさせてほしい」と言いながら、
一丁前にオリジナリティを求めている姿勢には目をつぶってもらいたい。

でも、何某かの証は残したい。
楽しいことも悲しいことも、心身で受け止めながら生きているのだから。


では、今の私に何ができるか。
それは、私という人間の「言語化」だと思う(最近思い始めた)。

これまでに出会った人々、出来事、体験。
それらと共存し、私の言動を形づくってきた喜怒哀楽の機微。揺れ。
何に感動し、何に落胆し、何を悩み、何に熱意を向ける。
何を望む。

それらを言語化し、主観的にも客観的にも認識する・認識されること。
今の私にはそれが必要だと思う。

そうでなければ、私は誰に対しても影響力を披露できないだろう。
私という人間を、価値観を、意見を、表現して伝えることができない。
うっかり迷い込んだ議論の土俵で、立ちすくんでしまう。
他人に相槌をうっているだけの自分にはさよならを告げよう。
流行りの大衆的な言葉に頼りすぎず、きちんと言葉選びをしよう。

子どもの頃から文章を読むことは好きだが、
書くことについては経験値が足りないと自覚はしている。
認識ではなく、評価の対象になってしまうのではと怖がる自分もいる。

それでも、私という人間の「これまで」と「今」を文字に起こし、
大海原にたくさんのボトルメールを投げてみれば、何か変わるだろう。

その作業をもって、私という人間の「未来」への期待としたい。
いつか「証」として私を存在たらしめる作品と為ることを願って。


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