大人と、やりたいこと


今回は「大人」「やりたいこと」「満足」「退路」これらのワードを使って書きたいことを書こうと思います。中々まとめるのが難しい内容でした…


いきなり複雑な話になりますが「大人」とは書いたものの、何歳から、どんな人が、大人なのかを考えたり定義したりすることは難しいです。年下の人に対して、自分より大人だなと感じることはありますし、逆に年上の人に対してこの人は幼稚だな子どもだなと感じることもあります。こういったことからは「大人」とは人と人との相対的な関係性を言い表す言葉だと言えそうです。一方で、大学の教授は「大人」や「子ども」「年齢」という概念はフィクションだと言いました。そのまた一方で、法律は18歳以上を「成人」すなわち「大人」として定めています。こうした例以外にも様々な「大人」の概念が存在しているでしょう。つまり「大人」とは一義的な意味が存在しないということです。(細かいことを抜きに言うと、僕は「自分のケツを自分で拭ける人」が大人だと思っています)


中学生の頃までは絶対的な存在であったはずの「大人」は、徐々にその姿が見えなくなってきました。大人を「正解」だと思い込んでいた気持ちも高校生の頃には既にありませんでした。今はかつて見えていた「大人がいる正解の世界」に踏み入る一歩手前です。しかしこんな世界はありません。実際には、正解を自分で用意しなければならない世界です。「大人」はこの正解のない世界で自分にとって、はたまた自分以外の誰かにとっての正解を探し求めながら日々生きています。


そんな世界をどうしたら満足して生きることができるのか。
僕はやりたいことをやって生きることができれば満足して、そして時に苦しみながらも楽しく生きることができると思います。これは口に出すことは簡単ですが、行動に移すことは非常に難しいことです。働き始めれば尚更です。決して働くことが悪だと言いたいわけではありません。しかし、自分のやりたいことに当てられる時間を労働に当てて、生活していくための賃金を
得なければならないというのは事実であり現実です。


ではどうしたら自分のやりたいことをする時間を増やすことができるのか。
そして満足して生きることができるのか。


ひとつの答えが「退路を断つこと」だと思います。
唐突ですが、僕はゲームが好きなのでプロゲーマーの人などの動画やライブ配信をよく見ます。画面越しに見るそうした人たちはもの凄く自由で楽しそうにしていて、自分もこんな生活ができたらいいのに、と羨ましく思うこともあります。でもこれはとても浅はかな考えです。というのも、この羨ましいという感情の裏には「ラクそうでいいな」という感情があります。このラクそうに見えるものが幻想であると気づかないと、たとえ自分が彼らと同じような生活をしても、満足することはないでしょう。

最近とあるプロゲーマーの方の経歴を知りました。詳細は割愛しますが、その方は会社員を辞めてプロゲーマーになった方です。自分のやりたいことのために会社員を辞めるというのは、本人からしてみれば退路を断ったなんていう感覚ではないのかもしれませんが、自分からしてみればそう思ってしまいます。正直、会社員を辞めて、いつまで流行が続くか分からない、先行きも分からないゲームのプロになるというのは客観的に考えれば大きなリスクです。でも、発生するかも分からないリスクに怯え、結局やりたいことができずに時間が過ぎて後悔するよりは、リスクを背負ってでもやりたいことをやった方が人生の満足度は絶対に高いはずです。

退路を断つというのは言い過ぎかもしれませんが、ただ確実に元居た環境が戻ってくることはありません。また、これはプロゲーマーの方だけに当てはまる話ではありません。僕も含め、元居た環境に戻れる人なんていません。でも安定した環境に身を置くことはできます。こうした安定した環境に妥協して身を置くか、それとも不安定な環境でもいいからやりたいことをやるのかがどれだけ満足して生きることができるのかの分かれ道になってくるのでしょう。またこうした二元論で語ること自体もう時代遅れなのかもしれません。会社員をやりながらプロとして活躍する方もいますし、今はやろうと思えば何でもできる時代だと思います。そのためには視野を広く持ち続けなければならないと強く思います。


僕はまだ、やりたいことの輪郭がまだぼやけています。もしかしたらないのかもしれません。しかしこればかりは時間的制約がないと、見えてこないし、分からない気がします。何でもできる時間があるが故に何もできない、ちょっとした矛盾が今はあります。大学在学中にこの輪郭が少しでも見えてくればいいなと思います。

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