カフェラテとジェンダーギャップ

今朝、さほど混んでいない電車の中でベンティサイズのカフェラテをぶちまけてしまった。

車内をさらさらと流れていく大量のカフェラテに慌てふためき、なけなしのポケットティッシュとタオルハンカチで出来る限り床を拭くしかなかった。

すると乗客の女性たちが、5,6人だろうか、次々とポケットティッシュを差し出してくれて、中には一緒に床を拭こうとしてくれる方もいた。

びしゃびしゃのティッシュを集めていたら「何もないんだけど、これ」といって、ゴミを捨てるためのビニール袋を差し出してくれる女性もいた。

もともと次の駅で降りる予定だったのであとは駅員さんに掃除をお願いするしかないと思い気まずそうに立っていた私の元にわざわざ遠くから駆け寄ってきて「車内がコーヒーのいい香りに包まれてるね」とティッシュを差し出して微笑み、一緒にいてくれた女性ふたりがいた。

起こしてしまったことは仕方がないけれど、数分の中でたくさんの女性の優しさに触れて、しくじった張本人のくせに心が温かくなった。

そしてその間、車内にほぼ同数存在していた男性たちが地蔵のように息を殺していたことに気づく。

「これだから男は!」と思うよりも先に

「この人たちが、困っている人に手を差し伸べずにいられる理由はなんなのだろう?」という疑問に近い感情を抱いた。

私が困ってるんだから、私を助けてよ!と言いたいわけじゃない。人にはそれぞれキャパシティやバックグラウンドがあって、とっさに行動ができないこともあるのは理解している。

そうすると今後はまた、別の感情が沸き起こってきた。

「誰かが困っている時にこんなふうにすぐ手を差し伸べてくれた“個人”たちが、世に出て“女性”という立場になると、社会で不遇を受けなくてはいけない事実があるのは、なんなんだろう」というむなしさだった。

たとえばあの時、車内という小さな社会の中で、困った私がいて、助けてくれた女性たちがいて、でも私は所詮彼女たちに形にならない感謝しかできなくて。世の中は「徳を積みさえすれば加点される」システムではないから、彼女たちは今日、私に自分の優しさを分けてくれたのに、今までもこれからも“女性である”ことで損をしていく機会に何度もぶち当たる可能性がある。そしてあの時車内で、床をつたうカフェラテに目もくれず知らん顔をした個人が“男性である”というだけで人生においてチャンスに恵まれやすいというのが、この日本における現在の現実であることが、どうしようもなく無力に思えて、私は駅のトイレで少し泣いた。

もちろんこの世にはやさしくない女性もいるし、あたたかい男性もいる。でも、今日、私に優しくしてくれたのは"なぜか”女性だけだった。ねぇ、なぜなんでしょうね?

ただ、ただ。誰かが困っている時にとっさに人に優しくできるような人に少しでも多くの幸せが”性別関係なく”訪れる社会になってほしいだけなの。

他人がこぼしたカフェラテを一緒に拭いても、損をする可能性がある性別

他人がこぼしたカフェラテを無視しても、難なく生きられる可能性がある性別

なんてものはあってはならないと思うんだよね。

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たった一杯、コーヒーがこぼれたぐらいで炙り出される、ジェンダーギャップがそこにある。

私たち女性はもう、とっくに共闘している。これ以上何を、どうやってがんばれば。

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