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絵画と演劇の重なりにルネサンスの魔術的性格を読む

絵画で描かれた光景が目の前で演じられていたらどうだろう? それは滑稽に見えるのか、それとも……。

ポール・バロルスキーは「ルネサンス期には、絵画と宮廷の祝宴の間には種々密接な繋がりがあった」と『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』のなかで書いている。
そして、こんな例を挙げる。

たとえば、アポロ、ムーサ、そして古今の偉大な詩人が登場するラファエッロの《パルナッソス》は、ヴァティカーノ宮殿の「署名の間」の壁上に描かれているわけだが、その位置がブラマンテによってすでに着工されていたベルヴェデーレ宮殿の中庭の劇場に面した壁上というのは、おそらく偶然ではない。つまりそうであってはじめて人々は、《パルナッソス》が描かれた壁の窓越しに、アポロとムーサたちの霊感を糧とする領域たる劇場を目にすることが可能になったのである。

ここで言及されているのは、この絵だ。

宮殿の中庭は劇場としての機能をもち、その中庭に面した壁には、その先の劇場で演じられるはずの《パルナッソス》が描かれる。つまり、演劇として演じられる光景と同じものが、すでにそれを観る観客たちがいるはずの部屋の壁に描かれているわけである。
絵の中の世界が目の前で展開される。なんとも不思議な光景ではないだろうか。

パリス・デ・グラッシスによれば、ある詩人の桂冠の儀が1512年にベルヴェデーレ宮殿の中庭において、オルフェウスとムーサたちに宰領されながら執り行われたようだが、この式典も《パルナッソス》眼下の中庭の劇場で執り行われたのではないだろうか。こうした宮殿の式典の図像学がラファエッロのフレスコ画のそれと関連するどころか、この祝宴の中心人物たちがラファエッロのフレスコ画の登場人物そっくりの格好をしていたのではないかという気さえする。

描かれた絵と同じような衣装を着て、絵の中の祝宴を再現する人たち。いったい、それにどんな意味があるのだろうか?

祝宴で神々のダンスを真似て

バロルスキーはまた、いまはルーヴル美術館にあるこのマンテーニャの絵についても同様の例として、演劇との関係を推測する。不倫関係にあったヴィーナスとマルスが岩の上に立ち、その前で他の神々がダンスを踊る絵である。左手で叫んでいるのが不貞をはたらかれた側の夫ウルカヌスだ。

「マンテーニャのこの絵に見られる寓意、パントマイム、ダンスは、結婚式といった重要な儀式の折に演じられた宮廷の仮面劇を思いださせる体のものだから、われわれとしては《パルナッソス》が、マントヴァなどイタリアの各宮廷で演じられた仮面劇とどの程度関係があるのかについて問うてみたくもなる」と。そして、そのダンスについて、具体的にこのような推測をするのだ。

ひるがえってマンテーニャの絵の中心テーマはと言うと、トマス・エリオットが『為政者論』で述べているように、マルスとヴィーナスの「愛−不義」が実際にダンスとして演じられたことに注目する必要がある。アントン・フランチェスコ・ドーニはその『大理石』の中で、コジモ・デ・メディチ大公の宮廷での幕合い狂言(インテルメッツォ)として、マルスとヴィーナスのダンスの物語が演じられたことを伝えている。

不義の神々を描いたこの狂言はどんな時に行われたのだろう。なんとバロルスキーは、この不義の様子を示した狂言がおそらく結婚式を祝して執り行われたものだという。しかも、もともとこの絵があった書斎の主人イザベッラ・デステとジャンフランチェスコ・ゴンザーガの1490年の結婚の際に。宮殿の主人の結婚式に不義の神々を描くという、この感覚があるがゆえ、バロルスキーは『とめどなく笑う』ルネサンスという一面を明らかにしている。

宮廷の中庭で神々を演じて

『ルネサンス宮廷大全』所収の「宮廷という舞台」の中で、エルヴィーラ・ガルベーロ・ゾルジは、演劇が行われた空間は「必ずしも、スペクタクルのために特別に設計され、建築された空間や建物ではない」のであり、「記念すべき行事を行うために、たまたま、または徐々に目的に合わせて使用された空間や場所のことであろう」と述べている。

ルネサンス期の宮廷文化においては、それが先のラファエッロの《パルナッソス》が描かれたヴァティカーノ宮殿のように中庭がその場所として代替される。

宮廷のスペクタクルは、まず初めは宮殿の回廊式中庭、大広間、庭園、つまり、利用可能な既存の場所で行われた。それらは芝居専用の場所ではなかったが、機会に応じて整えられた。

ゾルジはまた「君主の宮殿の回廊式中庭で行われたスペクタクルのもっとも初期の例を目にしたのはエステ家とメディチ家である」としているが、このエステ家こそ、先のイザベッラ・デステの家に他ならない。

祝祭としての演劇

「芝居の上演は宮廷の大祝典に必要不可欠な要素であり、さまざまな娯楽の中でももっとも期待に満ちた瞬間であった」とゾルジは言う。
それを理解した上で以下の引用を読んでほしい。

ウルビーノ公グィドバルド・ダ・モンテフェルトロのために織られた「トロイ物語」の壁飾り連作は、すぐに評判になった。1490年、フランチェスコ・ゴンザーガはイザベッラ・デステとの結婚の際、「宿縁の行なわれる広間を飾りつけるために」これらを貸してくれるように頼んでいる。あるいは四方の壁に一族の偉業を祈念する大画面を製作させて、ご機嫌取りの礼賛が行なわれた。あるいは、暗喩をもちいて、半神的、超人的属性にゆえに尊敬される古代の英雄たちの勝利も描かれたりもした。かくして、1480年代末にマンテーニャによって描かれた「カエサルの凱旋」は、1501年のカーニヴァルに政治的効用の頂点に達する。この時、この連作のうち6画面が芝居の壮麗なる舞台装置として陳列された。

どうだろう。こうした話などを重ねれば、先のヴィーナスとマルスを描いたマンテーニャの絵の話が実際の結婚に際してのダンスと関連していたであろうことをあらためて想起させるのではないだろうか。

「「再生(ルネサンス)」という言葉は、けっして「古代芸術や学問の復興」を意味するのではなく、その背後には人類の儀礼的見世物による思考、表象的思考、知的・思想的思考の最深部に根ざす、巨大かつ多義的な意味的形成物が隠されていた」と言うのは、『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』のミハイル・バフチンだが、ルネサンスの宮廷での祝祭における演劇やダンスはまさにこの「儀礼的見世物」のもつアレゴリカルな思考様式を反映しているのであろう。

自分たちと神話の神々を重ねて演じ、さらにその演じる様子を後にも先にも再現するような絵を描く。この魔術的、錬金術的な思考方法こそが真のルネサンス感覚なのだろう。それは中世におけるカーニバルにヘルメス的錬金術の文化が融合したものだったのではないだろうか。その演劇はだからどこまでもグロテスクなはずである。

そして、この中世のカーニバルを継いだルネサンス的な祝祭の伝統も失われていく先に、1つ前の「プライバシーと空間の変容」で書いた19世紀の神経症と犯罪小説の社会が登場する。集団的な祝祭が禁じられた後、個人は、病かフィクションの中にひとりぼっちの祝祭を求めはじめたのだ。

#ルネサンス #演劇 #祝祭 #カーニバル

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