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海と鏡を見た2月

 駅から海まで なんて都合のいいバスは出ていなかったから、市立中学前の停留所で下車した。校舎にも校庭にも人の気配はない。土曜だからだろうが、それにしても。数百単位の人を収容するために用意された建造物の、純粋な巨大さだけが押し寄せてくるようだった。空は何層かの薄い雲で覆われてほとんど白に近い灰色をしている。日本海側っぽいなという言葉がなんとなく頭に浮かんだ。駅前には賑わいと言っていいほどの賑わいがあったが、目の前の道路はごく不規則に車が行き交うだけだった。ここから徒歩で海に向かう。スマホで位置情報を確認する。同じバス停で数人降りたが、皆地元の人間なのだろう、自分がやっと方向を定めたときにはすでに遠い背中が迷いなく歩いていくのが見えた。道のりを確認しながら進むうち、その背中も姿を消していた。

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 海に近付くにつれ風が狂暴になる。薄い雲の層が上空を滑るように流れていくのが見えた。駅前のコンビニで買ったコーヒーが左手の中で急速に冷めていく。耳障りなくらいの音を立てて揺れる黒い防砂林を抜けると水平線が在った。海岸線に沿って走る道路を横断し、錆びの入ったガードレールをまたぐ。
 細いロープが張られたりたわんだり散乱しているそこはどうも駐車場らしかったが、車も人もなかった。コンクリートを固めて簡素に作られた道が海に沿って伸びていて、水面にかけて下るように岩場が形成されている。
 岩場へ降りて、姿勢を低くすれば少しは風の影響が和らいだ。視界を海と空の階層的なグレーで埋める。完全に冷めたコーヒーを口に含む。ところどころ雲が切れて、筋状の光が数本差していた。

 この町に来る予定は1か月前から組んでいた。大きな目的は人に会うことだったが、昨夜着いてから朝を迎え昼過ぎの今になっても当人からの連絡はなかった。

 コーヒーを飲み干す。海を右手にしばらくコンクリートの道を歩いた。二、三十メートルほど沖に置かれたテトラポットの群れに、波が打ち付けられてはしぶきを上げる。視覚と聴覚との微妙なタイムラグでその距離を実感する。水平線までの道のりを目が追う。連鎖的に、視界に捉えた水面の範囲、そこから上空へ広がる空間、それが自分をも取り囲んでいることを意識する。深いブルーグレー色に、水底の遠さと温度を想起する。傾き始めた2月の陽が赤みを帯びて差す。そのあたたかさを感じた自分に気付いて、海からの風をまともに受け続けた身体が冷え切っていたことを知る。

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 ビジネスホテルのダブルベッドに丸まって眠った。夢は見なかった。目を覚ます。小さな窓から光が注いで部屋は白かった。スマホがメッセージの受信を告げる。シロサキだ。返信をする。珍しくすぐに既読がつく。そのまま数分待ったが返信はない。ベッドから抜け出し、歯を磨く。コンビニで買った冷凍のブロッコリーを皿に開け備え付けの電子レンジにぶち込む。コーヒーのための湯を沸かす。窓から覗く日本海沿いの町は昨日よりも明るい。スマホで天気予報をチェックする。午後からまた曇るらしい。

 金だろ。もしくは知識。啓示。
 私はなにが欲しいんですかねといつかこぼしたとき、シロサキはそう応えた。ホテルのクローゼットは扉の全面が鏡張りになっている。機械的に歯ブラシを動かしながら、頭のてっぺんからつま先までを何往復か眺めた。

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