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罪状「金稼ぎ」

「100日後に死ぬワニ」という漫画が昨日、完結した。多くの人々がその完結について日々考察し、やきもきし、待ち焦がれ、そして見届けた物語の終焉に満たされていた。
問題は、その後である。最終話が投稿された約一時間後、唐突に現れた作品公式ツイッターにてメディアミックス、書籍化が続々発表されたのだ。これについて「冷めた」「感動を返せ」などといった声が噴出する事態となった。さらには、この作品に電通が携わっていたことが「過労死問題が出た企業として、襟が正されていないのでは?」などと批判されるという、制作関係者陣も想定していなかったであろうあらぬ方向へと転がり始めたのである。

作品の結末のあり方についてこれだけの声があがるという状況そのものが、今回の「100日後に死ぬワニ」という作品にあった反響の大きさそのものを表していると言えるであろう。それだけの作品に対しあれこれと思うところがあるのは当然のこととして、100日間読み続けてきた私自身も諸々思うことがあり、今回はこの話題について書き連ねることとする。

まず電通が携わったということ対する批判は、一度置いておこう。電通という企業に罪があるとして、そこが制作した訳でもないのに、作品そのものにその罪を負わせるというのはあまりに酷な話だ。批判されるべきは企業であり作者でも作品でもない。その明確な視点がないだけで、批評というものは途端にぼやけてしまいがちなものである。
他にも、例えば「100日かけて出続けることに意味がある、書籍になっても読む価値がない」という意見や「プロモーションが下手すぎてがっかりした」という感想については、それを感じる人間の感性を含めて、決して否定をされてはならないだろう(俺もちょっと思った)。

ただ、「この漫画も結局金稼ぎかよ」「金稼ぎという、制作の裏側を見せつけるな」「余韻に浸りたかったのに完結させたらいきなり金の匂いがプンプンだなんて野暮だ」などという、「作品商業主義」批判の文脈から放たれる「冷めた」という声についてだけは、どうしても私の首を縦に振ることができない。私はこれについて、どうしても声を挙げねばならぬと焦燥に駆られるのである。

経済というものについて少しだけ考えてみたい。といっても、別に難しい議論をこねくり回したいのではなく、ただ「提供されたモノに相当する何かと交換する」ということが理にある、ということを確認しておきたいだけなのだ。勿論、それだけで世の中が回らないということは百も承知。だが、だからこそ、対価をあえて受け取らず無料でそれを提供する、ということにはプライスレスな付加価値が付く筈のものであろう。だからこそ、例えばボランティアといった献身には、その行動のなかに尊さがあるはずなのだし、無料で漫画何話分かを公開する、ということが広告投資としての価値を持つことが出来るのである。趣味にだって、それがたとえ金銭などといった対価を生みだすことがなかったとしても、例えば自己満足だったり他人からの称賛や感謝などという何かしらの対価が存在し続けるからこそ、私たちはそれを続けることができるのだ。

私たちはついうっかり、そうした「無料という付加価値」の上へ胡座をかいてはいなかろうか?それは、モノを授受する立場もであるが、「何かを提供する立場の人間も」である。

社会のなかで「やってもらうのが当たり前」「お金を払わないのが当たり前」という人間はつまはじきにされてしまうはずであろう。それが何故、今回の無料ツイッター漫画には通用しないのだろうか。私には、このシンプルな疑問への答えが未だに見出だせない。突き詰めるならば、こういった考えの歩む先に、「音楽ストリーミングサービスが何故無料ではないのか?」「オリンピックのスタッフはボランティア」といった意見や状況が生まれ得るのである、と考えてしまう(つまりは、私はストリーミングやボランティアのこういった状況についても、積極的に肯定することが出来ていない今日この頃である)。

金を稼ごうとすることは野暮なのか。

「提供されたモノに対しては相応の対価を支払う」これを忘れた先にあるのは、モノを生み出すものが奴隷の如く搾取され、疲弊し、そして誰も居なくなった世界だ。対価のない生産は、たとえそれが趣味であったとしても、人間の首元へ易々と刃を差し向けてくるのである。

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