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マイケル・ベイジェント「テンプル騎士団とフリーメーソン」読書感想文

読書の幅を広げたい。
選本にはいつも迷う。
慎重にいきたい。

安全牌のようにして “ 日本中が感動の涙!” という本を読んで、まったく感動もなく涙もなく、だから受刑者なんだと自己嫌悪に陥ることも多々あるからだった。

どうやら、人気作家を読めばいいというものでもない。
安易に乗っかると、打ちのめされる。

たとえば湊かなえとか、あとは湊かなえとか、やっぱり湊かなえとか、とにかくも、あの湊かなえのつまらなさ・・・、いや、つまらないといっても、まだ2冊しか読んでないのだから、言い切るには早すぎる。

ただ単に “ 合わない ” ということだってある。


この本を選んだ理由

また自分の読書の方向に迷っている。
文学界の大御所だったらと、川端康成の「雪国」に手を出したけど、以外におもしろくない。

“ 文学史上の傑作 ” という本だったら大丈夫だろうとフランツ・カフカの「変身」を読んだが、なんだこれはという感想しかなかった。 

で、また頭をかかえる。
おもしろくなかったという本の感想が、心の中に貯まっていくのが、さもしい人間に感じてしまう。

それにだ。
中卒なのだ。
その読解力に合わせた本でなければならない。

かといって、簡単に理解できる本も、それはそれでおもしろくない。

だからといってだ。
まったく理解できない本だっておもしろくない。

ちょうどよく理解できる本を選びたい。
少し難しいくらいの本がいい。
かつ、おもしろい本。

※ 筆者註 ・・・ 今、読書録を読みかえすと、完全に懲役病が入ってます。いつまでも内にこもってウダウダするのも、独り言をブツブツいうのも、神秘さに興味が向いていくのも、大きな症状といえるのです。

単行本|2006年発刊|506ページ|三交社

原題 : THE TEMPLE AND THE LODGE
共著 : リチャード・リー
訳 : 林和彦

一言でまとめる

大雑把に一言でまとめると、テンプル騎士団がフリーメーソンになってアメリカが独立しました、ということになる。

で、おもしろい。
フリーメーソンとあるので、歴史トンデモ本の類かなとは思っていたが、ノンフィクションだという。

独自に取材をして、仮説を立てて、証拠も見つけて、また調査をして、考察してと続いていく。

事細かに調べ上げているので、荒唐無稽には感じない。
文献の羅列ではなくて、取材の様子も描かれているので、500ページの厚い本にはなるが読んでいて飽きない。

あと、西洋の歴史に詳しいのだったら、もっと別な感想もあったと思われる。

大まかな理解 - 報告書風

テンプル騎士団は9人で創設された

マイケル・ベイジェント氏(以下、マイケル氏)は、まずはテンプル騎士団の歴史を紐解く。
概要は以下である。

1118年、テンプル騎士団は創設される。
イタリアである。

有力者9名が、中心メンバーとなる。
目的は、聖地エルサレムへ向かう巡礼者の保護。

このころにエルサレムを含むパレスチナの地は、キリスト教徒の国となっている。

十字軍の遠征により、イスラム教徒から奪還したのだった。

これにより、ヨーロッパからエルサレムへの巡礼に向かうキリスト教徒の保護が必要となる。

さらにエルサレムの防衛ため、兵士や物資の補給も必要となっていた。

組織は巨大化していく

創設されたテンプル騎士団には、金銭も土地も寄付される。
団の勢いは膨張する。

ヨーロッパ各国に支部が設立され、さらには治外法権を持つまでになる。

巨大化していく背景には、信仰の力があったとの推測は難くないが、そこにはもうひとつ、経済活動の裏づけもあった。

巡礼者の移動は主に船になるが、当然タダではない。
大きな収益が発生して、ついでに羊毛の輸出にも手を出す。

やがてテンプル騎士団は、地中海を中心に船団を持つようにもなる。

以外だった。
騎士団というと、馬で走り回っている集団を連想していたが、テンプル騎士団においては船団での活動が主だったのだ。

テンプル騎士団とは金融機関でもある

マイケル氏は、多くの文献を示して、テンプル騎士団の収益事業を解説していく。

とくに注目しているのは、金融業である。

聖地の巡礼であるにしても、金銭は欠かせない。
送金を受け取る巡礼者もいる。
全財産を預ける巡礼者だっている。

テンプル騎士団が、為替、融資、信託、債権回収などの、現在の銀行業務に近い金融業者となっていくのは自然でもあった。

強い財務面も備わって、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガルなどヨーロッパの主要国に影響を持つようになる。

マイケル氏は各地に取材に赴いて、当時のテンプル騎士団の遺構を確め、本書のなかで写真入りで紹介している。

テンプル騎士団の存在意義が揺らぐ

しかし、状況が大きく変わった。

1291年、エルサレムでの戦いで、キリスト教国家は敗北。
キリスト教勢力は撤退する。

この敗北により、ナポレオンの時代まで500年近く、キリスト教徒はエルサレムへ立ち入り禁止となる。

すでにテンプル騎士団は大きな力を持っていたが、最大の存在理由を失うことになったのは、マイケル氏の解説を待つまでもない。

13日の金曜日の告発

マイケル氏は、次にはテンプル騎士団の壊滅の様子を描くのに着手する。
以下である。

1307年10月13日金曜日。
フランスのフィリップ国王の告発だった。
テンプル騎士団は異端だ、というのだ。

これにより、テンプル騎士団員が続々と逮捕される。
次々に投獄されていく。

フィリップ国王が告発した理由は、騎士団国家建設を警戒してのことだった。

チュートン騎士団の先例があった。
チュートン騎士団は、プロイセンを植民地としていたのだ。

今のうちに潰しておかなければ、いずれはフランスを脅かす存在となってしまうとの思惑だった。

異端の告発が相次ぎ、団員の裁判は続く。
管区領は差し押さえとなり、財産は没収となる。

この収奪も、フィリップ国王の思惑でもあった。

ついには、テンプル騎士団の第23代目大総長のジャック・ド・モレーは、パリのシテ島で火あぶりとなる。

大総長は、焼かれながら呪いの言葉を叫んだ。

ちなみにシテ島は、フランスのノートルダム寺院があるセーヌ川の中州。

英語の “ シティ ” の語源となる、とマイケル氏は丁寧に書き記す。

アヴィニョン捕囚とテンプル騎士団廃絶命令

また、フィリップ国王は、この時期にローマ大教皇を事実上の配下に置いた。

ローマではなく、フランス勢力下のアヴィニョンに教皇庁をおいたのだ。

いわゆる “ アヴィニョン捕囚 ” である。
1309年から70年続いた。

アヴィニョン捕囚により、フィリップ国王は、大教皇の勅書を意のままに発行することができた。

1312年、フィリップ国王は、大教皇の勅書として、ヨーロッパ各国へテンプル騎士団廃絶命令を出す。

カペー家の奇跡の消滅は呪いなのか?

そんな最中だった。

1314年、フィリップ王は死去する。
3人の息子がいたが、次々に早死にしていく。

1328年には、3人目の息子が死去。
3人の息子とも、王位を継ぐ男子をもうけないまま早死したのだ。

これは大変なことだった。
ヨーロッパにおいて、フランスが他の国より先んじて栄えたのは、350年もの間、王家に男系が続いたことで国がまとまったからだった。

“ カペー家の奇跡 ” といわれる。
この350年続いた奇跡が消滅したのだ。

人々は、ジャック・ド・モレー大総長の呪いを信じる。
13日の金曜日に、テンプル騎士団は告発されている。

以来、その日が忌み嫌われる由来となる、とマイケル氏は解説した。

戦闘力はどうだったのか?

軍事組織としてのテンプル騎士団はどうだったのか?

各地に赴いて取材を重ねたマイケル氏は、人員を割り出す。
以下、結果と所感である。

イングランドでは、廃絶命令時の人員は計265名。
そのうち、戦闘員である騎士は29名。
従者が77名。
あとの160名余りは支援要員だった。

以外である。
軍事組織としては、小規模になるのではないのか?

フランスでは、人員3200名。
そのうち、騎士は1280名。

アイルランドでは人員90名。
そのうち、騎士は36名となっている。

以外に規模が小さい、という読者の声をマイケル氏も予想したのだろうか。

当時の100名の重騎兵隊は、200名から300名の歩兵を叩き潰すことができたと考えられる、と補足している。

大航海時代にも海賊にも痕跡あり

大教皇の勅書によるヨーロッパ全土への廃絶命令で、テンプル騎士団は壊滅したかに思えた。

が、多くの元団員は、摘発を逃れているのをマイケル氏は調査によって掴んでいく。

ポルトガルは『キリスト騎士団』と名称を変更。

ちなみに、この『キリスト騎士団』は、インド航路を開拓したバスコ・ダ・ガマが所属していた。
あのコロンブスも、ここの総長の娘と結婚していている。

騎士団と大航海時代との接点があると、マイケル氏は明らかにする。

ドイツの元団員は『ドイツ騎士団』と合流。
スペインは『モンテザ騎士団』を新たに創設。

スコットランドに逃げて匿われた元団員は『聖ヨハネ騎士団』となり、そのあとは王家の親衛隊である『スコッツガード』となる。

これらの団体には、モントゴメリー家、シートン家、スチュワート家、ハミルトン家、カニンガム家・・・、といった有力貴族が身内を在籍させている。

上記の経緯については、マイケル氏は多くの家系図を示して解説する。
が、よくわからないというのが実際である。

また、マイケル氏は、テンプル騎士団と海賊の関係に迫る。

元テンプル騎士団員の墓には、海賊の旗にあるドクロマークと同じ紋様が彫られているのだ。

とにもかくにも、マイケル氏いわく、テンプル騎士団は壊滅しませんでした、とのことである。

フリーメーソンとの合流

ここから、マイケル氏の仮説が多く用いられるようである。

伝統の継承、神秘的悲劇という混合物が核ともなると述べるマイケル氏は、なんとテンプル騎士団は、あのフリーメーソンと合流したというのだ。

いや、仮説ではない。
にわかに小説っぽくもなってきてはいるが、文献も調べ、遺構も調査し、痕跡を示して、詳細に根拠を述べている。

マイケル氏によると、テンプル騎士団はキリストの秘密も握っていたというのだ。

その秘密は、全世界に公開されたものなら、キリスト教が崩壊するほどのものだという。

それほどの秘密を、証拠と共に保持して現在に伝えているのがフリーメーソンだとマイケル氏は解き明かす。

ここの部分は、ざっくりと100ページくらいはある。
たっぷりと解説されている。

が、その秘密はなんなのか、はっきりとは明かされない。
もったいぶるマイケル氏である。

もし、キリスト教徒だったら、そんな秘密があるということ自体が衝撃かもしれないが、ちょっと日本の仏教徒にはピンとこないというのが正直な感想である。

アメリカ独立戦争とフリーメーソン

とにもかくにもである。
フリーメーソンの系譜にテンプル騎士団があるのである。

で、フリーメーソンは、各地に “ ロッジ ” という集会場を設ける。

1688年、フリーメイソンはフランスに上陸。
1726年に、パリにロッジ開設。

1720年代末からは、イギリス軍付の野外ロッジが設けられるようになる。

この軍隊付の野外ロッジは、階級にとらわれることなく、兵士同士の意思伝達を流動的にした。

フリーメーソンのメンバーとなった兵士は、ロッジを介して、自由、平等、友愛、寛容、人権という概念を習得した。

ロックヒュームアダム・スミスなどの思想も伝えられた。

時代はきな臭い。

フリーメーソンは、近代の戦争において活躍したという。

1740年からの48年間のオーストリア継承戦争。
1754年からのフレンチインディアン戦争。
マイケル氏は、フリーメーソンの活動を十分に挙げていく。

そして時代は、アメリカの独立戦争に突入していく。

1773年ボストンティーパーティー事件。
1775年レキシントンコンコードの戦い。
各地で戦闘がはじまる。

これらの戦場にも、フリーメーソンのロッジがあって、イギリス軍と独立軍の兵士の交流があったことを、マイケル氏は証拠と共に指摘していく。
ロッジの数までも詳細だ。

そして、1783年9月3日。
パリ条約でアメリカは独立国となる。

このアメリカ独立戦争には、大きな謎が残っている。
決定的な敗北がないのに、イギリス軍は引き上げたのだ。

これはフリーメーソンの影響だと、マイケル氏は結論づけている。


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