無縁仏の謎
刑務所には無縁仏がある。
毎年、刑務官は草刈りをして、お盆には線香を上げている。
その無縁仏が身近に感じてきていた。
身元引受人からの手紙が絶えて、2年が過ぎていた。
忙しいのは知っているが、理由はわからないままだった。
ちなみに、刑務所の身元引受人は親族に限られる。
たしか、3等身まで。
で、高齢者は認められない。
なので、多くの身元引受人は、配偶者か子供か兄弟か。
あとは内縁関係者とか、出所後の就職予定先の社長でもいけるときもあるが、このあたりは所長の方針で刑務所ごとに可否が異なる。
刑務所の身元引受人の条件
いずれにしても、身元引受人には、法務省保護局による “ 帰住地調査 ” というのがある。
保護司が尋ねて面談を重ねる。
仮釈放された場合に寝食の提供ができるのか、就労はどうするのか、満期まで日常生活の監督はできるのか、あれこれと具体的に確める。
警察や拘置所のように、身元引受人として釈放のときに来てくれればいいというわけではない。
それを知らない友人あたりが「身元引受人になるよ」と気軽に手紙など寄こすが、好意はありがたいけど無理な話なので、すべて断らなくてはいけない。
親族が誰もいなければ、民間の保護会が身元引受人になるが、仮釈は長くても半年までとなる。
佐木隆三の本も読んでみたい
このあたりは、佐木隆三が詳しいと思われる。
死刑囚や殺人犯といった受刑者モノが多い作家。
まだ、1冊も読んだことないけど。
これから読む。
「身分帳」はノンフィクションノベル。
主人公は、前科10犯の元受刑者。
「すばらしき世界」というタイトルで映画化されている。
坂本敏夫の本を読んでみたい
刑務官から作家になった坂本敏夫もマークしてる作家。
父親も刑務官だったというから筋金入りだ。
「刑務官」という小説も刊行しているが、いちばんに読みたいのは「典獄と934人のメロス」になる。
刑務官を辞した坂本敏夫が、30年かけて調べて書き上げたという1冊。
関東大震災のときに、火災が迫った横浜刑務所の所長(典獄)が934人の受刑者を24時間に限り釈放した。
すると全員が約束とおりに戻ってきた、という実話らしい。
・・・ 脱線した。
無縁仏である。
無縁仏への違和感
身元引受人が忙しいのはわかっている。
刑が執行された直後に1回だけ面会にきたが、なにしろ日帰りが難しい地域から来ることになるし、心配をかけてもいけないので「まあ、だいじょうぶだよ」と明るく言い切ったのもマズかったかも。
なんにしても手紙の返信がない。
無縁仏が身近に感じてきて、懲役病の末期も圧しかかってきて、独居の中であれこれくどくどと考え込んでしまう。
21時の就寝になる。
寝れないのだけど、目を閉じて横になっていると、迫ってくるようにして瞼の裏に浮かんでくるのは、田舎にあった無縁仏だった。
集落の入口の四つ角にある無縁仏だった。
石碑として建てられていて、古めかしくて、お盆のときには集落の人からの線香とお供えが絶えることがなかった。
地域の風習みたいになっていたので「なんで?」ということは誰も口にすることはないが、ひねくれている子供には素朴な疑問がある。
そうではないのか?
無縁仏の意味はわかる。
が、昔だって今だって、田舎に住む者には、親戚縁者が必ずいるはずなのに、どういう状況で無縁者などいたのか?
田舎の人は、心が優しいとか、人情に厚いとか、皆で助け合うなどいうが、本当にそうだったら無縁者などいないはずではないのか?
田舎を美化してるだけではないか?
父親に訊いてみたが、彼も無学なのだ。
本など1冊も読んだことないし、歴史にも全く興味がない。
昔に戦があって人が多く死んだらしい。
そこに行き倒れの人なども無縁者として葬られた。
そんな答えを覚えている。
それ以上は知る機会がないままになっていた。
16歳で家出したから。
無縁仏というのは厄介者では?
今になって、田舎の無縁仏が疑問となってぶり返している。
通常、無縁仏には、社会の厄介者が入る。
決して社会の功労者ではない。
だから、そんな集落の入口の目に付くところに無縁仏の石碑など建てて、お盆には英雄を祀るみたいになっているのが、檻の中にいる今となっては違和感しかない。
そりゃ、昔の人は信心深い。
無縁者でも丁寧に弔うだろうけど、だからって自分たちの墓よりも立派な無縁仏の石碑を建てるのか?
石碑だって、ただじゃないだろう。
集落の皆で費用を出し合ったとすれば、それなりの理由があったのではないのか?
東京の吉原のなんとかという寺にも無縁仏の石碑があるけど、それはたしか、江戸時代を通じて、2万人ほどの遊女の遺体が投げ込まれたからこその石碑。
人数で決まるのではないが、しなびた田舎の片隅などに無縁者などそれほどいないだろうに、なぜ、石碑など建つのか?
よくある昔話の、全国行脚している坊さんの行き倒れか?
でも、それだったら寺が埋葬するのでは?
無縁仏としては祀らないだろう。
調べたり確めることができない檻の中では、田舎の無縁仏が誰にも話せない悩み事みたいな存在になっている。
無縁者となった理由があるのでは?
無縁仏の悩みを抱えたままで過ごしていると、ニューヨークヤンキースで活躍した伊良部秀樹が身内のゴタゴタで無縁仏になっていると回覧新聞の記事でみた。
そうだったのかと、悩みが少し薄れた。
あの田舎の無縁仏に葬られている人たちは、無縁者でもなく、厄介者でもないのではないのか?
しっかりと縁はあるのだけど、無縁者としなければならなかった理由があるのでは?
無縁者としたのが心苦しいから、石碑を建てて祀ったのかもしれない。
それはそれとして、そもそもが戦があったっていつ?
太平洋戦争のときだって、結局は戦闘機すらも飛んでこないから爆弾のひとつも落ちなかった田舎だ。
そうすると、死者がでるほどの直近の戦といえば、幕末の戊辰戦争しかない。
それ以前だと戦国時代になるが、まさか戦国時代からの石碑ではないだろう。
そんな古い石碑は聞いたことないし。
戦があったする。
でも、なんの戦なんだ?
あの田舎は、戊辰戦争どころか歴史の舞台というものに1度だって出てきたことはない。
交通の要所でもない、農作物が豊富でもない、産業もない。
もし “ 寒村 ” の見本を示せといわれたら、あの田舎を挙げれば間違いはないという風景である。
水戸天狗党か?
調べたり確めることなどできないから、ある限りの本や新聞を読んだり、テレビでヒントを得るしかない。
それこれと、2年以上に妄想を重ねた結果がふたつがある。
まずは江戸末期の一揆。
江戸末期には一揆が多発したという。
一揆の首謀者たちは、確実に死罪となる。
彼らは功労者としては称えられないので、無縁仏として石碑を建てて祀られたという説。
たった1人の説ではあるが、これだったら不思議ではない。
ふたつには、幕末の水戸天狗党。
筑波山から京都を目指した天狗党が、当時に進行したルートが、あの田舎と被るのを知った。
過激な尊王攘夷を唱える天狗党だった。
彼らが京都に到着したなら、すでに開国佐幕へと移りかけている政局が混乱することが予想された。
西上を阻止しようとする幕府軍との戦闘も、各地でちょいちょいとある。
もし、あの田舎で。
天狗党の進行を阻止するための戦いがあったなら。
幕府軍や地元民の戦死者は “ 功労者 ” としての墓となる。
天狗党の戦死者だったら “ 無縁仏 ” でも不思議ではない。
後に天狗党は、盟主とした徳川慶喜に見捨てられる。
352名が斬首されている。
当人らは武士としての切腹を訴えたが、ただの賊軍としての斬首のさらし首。
それを後に聞いて哀れんだ、あの田舎の村人が、せめて無縁仏だけはと石碑を建てたとしても不思議ではない。
個人的には “ 天狗党 ” というネーミングは、どうにかならなかったのかと思ってしまう。
だって “ 天狗 ” だもん。
意気はすごくわかる。
熱いし。
でも、なんかこう “ 新撰組 ” とか “ 白虎隊 ” とか “ 奇兵隊 ” といったのと比べてしまうと、そこはパンチに欠ける気がしてならない。
いずれにしてもだ。
この水戸天狗党は、幕末の最大級の悲劇には間違いない。
もっと知りたい。
吉村昭の本も読んでみたい
これについては、吉村昭の「天狗争乱」を読んでみたい。
吉村昭は最重要マークしてながら、まだ1冊も読めてない。
著作は幅広い。
「羆嵐」を、最初に読むと決めている。
北海道でおきた三毛別ヒグマ事件を描いたものとなる。
まずは、この1冊で、吉村昭の感触を試す。
いってみれば、吉村昭にジャブを放つのだ。
「ポーツマスの旗」は、司馬遼太郎が「アメリカ素画」の作中で “ 好書 ” と紹介している。
「桜田門外ノ変」と「戦艦武蔵」の2冊は、磯田道史が推薦している。
たしか「日本史の探偵手帳」の中でだったけど “ 歴史を知る100冊 ” のうちの2冊として挙げているので外せない。
吉村昭の著作は本当に幅広い。
「仮釈放」「破獄」といった、受刑者モノも書いている。
なかでも「破獄」は琴線に触れる。
無期懲役囚の佐久間清太郎がモデル。
昭和11年から22年にかけて4度の脱獄を遂げた
もちろん、こういった本は刑務所では禁止本になっている。
受刑者となったら、誰もが1度は脱獄を夢想する。
刑務所からの脱獄ルートくらいは確める。
そして諦める。
ついでにいえば・・・。
・・・脱線が、さらに脱線した。
本題は、その田舎の無縁仏である。
さらに2年ほどは、無縁仏の悩みにとりつかれた。
このような状況から、受刑者となると宗教に走る者もいるし、信心深くなる者もいると思われる。
悩みは、仮釈放になることで解消した。
・・・が、中途半端に長くなりそう。
次回にするのです。