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たなかの読書感想文#1 安部公房「砂の女」

中学生の頃かな?父親に手渡された本が安部公房の「箱男」だった。どういう意図だったのかはわからない。なにか大事な教訓を得させようとしたのか、単に趣味を共有したかったのか。他にも小説をレコメンドされた記憶があるような気がするが、作品名を覚えていないので特に刺さらなかったんだと思う。

まあとにかく、自分にとって「箱男」はなにか特別な意味が付与された小説として存在している。それは小説の中身とは別の、自分と父親の関係という外部から紡がれた文脈だ。作品の内側と外側。作者のまったく預かり知らぬところで存在する思い入れ。そして実際のところ、「箱男」はめちゃくちゃ面白かった。何年か経って、ストーリーは忘却の彼方へと去っていったが、安部公房ないしは箱男への思い入れだけは自分の中に残っている。

というわけで、箱男以外も読んでみるぜ!という気持ちで読みました。「砂の女」という小説。代表作らしい。

『砂の女』は、安部公房の書き下ろし長編小説。安部の代表的作品で、近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされているだけでなく、海外でも評価が高い作品である。海辺の砂丘に昆虫採集にやって来た男が、女が一人住む砂穴の家に閉じ込められ、様々な手段で脱出を試みる物語。

ウィキから引用してみました。まあ気分の滅入る小説だった。男はある集落を訪れる。海辺の砂丘にあるその集落は、常に人手を求めている。砂を掻き出さなければ、家が潰れてしまうからだ。そんなことは露知らずやってきた男は、深い砂穴のなかにある家に突き落とされ、「労働」させられる。砂でできた牢獄。自由を求めて男は脱出を企てるが、ことごとく失敗する。

しかし、一見自由な外の世界も、よくよく見てみれば単なる繰り返しに過ぎない。決まった電車に乗って、決まった職場に赴き、決まった同僚と仕事をする。彼の教える生徒たちは川を流れる水のように、さらさらとどこかへ流れていく。男や同僚たちは、水に洗われる川底の石みたいに、どこにも行けない。

それはこの砂穴での暮らしと何が違う?というのが主に描かれることで、砂穴と外界は対照的な存在と見せかけて、実はサイズが違うだけの相似形。いままでは広すぎて檻だと気づけなかっただけ。そんな世界で、最後に男は何を見出すのか?という小説である。

常々思っているのだが、人生というのは、捨てることなんだと思う。高校生だった自分を捨てる。小説家になりたかった自分を捨てる。あの人のことを想う自分を捨てる。捨てて、空いたスペースにまた何かが入ってくる。いずれ時が来れば、それもまた捨てる。入ってくるものではなくて、入っているものを捨てること、換気することが本懐なのではないかと思うのよ。

例えば、世界が寝静まったあとの枕元で、顔の見えない手が不思議な形のじょうろを傾けている。とくとくと注がれる水は、自分という器を満たしていく。朝が来て目を覚ますと、手は跡形もなく消えている。無数に並んだ家々のひとつひとつに、手は訪れる。まめなのだ。そうやって満たされた水を、日が昇っているあいだに使ってゆく。注がれたものを使い切ることが、自分のやるべきことなんだと思う。使い方はどうでもよくて、ただ、器を空にしておくこと。それだけが求められている。

水を使い切るのにうってつけの行為があって、それが労働だ。手を動かして働けば、手っ取り早く水を消費できる。男は砂を掻くことで、日々の水を捨てるようになったのだ。空っぽの器を抱えてぐっすりと眠ることほど歓びに満ちたことはない、と思う。どうでもいいのだ、やり方なんて。満ちみちた器が空になればなんでもいい。そう思っている。

「砂の女」の砂についてここまで書いてきた。砂の女の読書感想文なのだから、女についても書かなければならないだろう。半分だけでは物足りない。しかし、穴ぐらの腐りかけた家に住まうこの女については、僕はよくわかりませんでした・・・。

というかなんか、全体的に、女性ってよくわからんのよね。僕は中高一貫の男子校にまちがって入学してしまったために、思春期の大事な時期に女性と接する機会が少なかった。そうなるとなんというか、日常に女性が存在しないために、やけに神格化してしまうところがある。登下校の電車のなかで見かける女子高生たちは、僕にとっては単なる景色として存在していて、コミュニケーションをとる対象ではなかった。

だから、女性が何を考えているのか、何を大事にしているのか、そういうことがあまり良くわからない。なんつーか頭では分かっているのだが、身体レベルでの感覚に落ちてこないというか、いまでも女性と話すときは緊張してしまう。しかしその感じが逆にうまく作用したのか、この作品の女はとてつもなく魅力的に映った。家のなかにさえ絶え間なく降りゆく砂を避けるため、顔だけを覆って全裸で寝ている瞬間の、くすんだ、ざらついた美しさは、自分からあまりにも遠い場所にあって、それゆえに美しかった。

砂をまとう身体に触れることは、汚れるということで、それは僕にとって、外部であることを意味する。清潔な自分というのが、家という内部に保管されている。だから、外から帰ってきたら手を洗ったり、服を着替えたり、シャワーを浴びたりする。家に砂が降り注いでいたら、そこは自分にとって家だと言えるのだろうか?落ち着かないだろうなあ、まあ、慣れるのか。多分。そういう落ち着かなさ、非日常感。常にどこか気を張っていなければならない状態で、全裸で眠る女。ちぐはぐな状況だ、あまりに。

ちぐはぐさ、というのはある程度まではウケるのだが、ある線を超えると途端に、性的に感じられるように思う。理由はわからないが、そうなのだ。なぜか興奮する。噛み合わないのが、セクシーだ。なんでだ……。

ということで、初回は安部公房の「砂の女」の読書感想文でした。次回は未定。読んでほしい本があればコメントなりなんなりで教えてくださいませ

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