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自由を棄てて、縛られる

ことさらに持て囃される概念のひとつに、自由がある。何かから解き放たれていること。縛られていないこと。あらゆる選択を、自分で行えること。自由をあらためて定義するのならだいたいそんなところだろう。

しかし実際のところ、自由は、もう終わっている。おれは自由になったところで何も成し遂げられない。無限に広がる草原に寝転がって、太陽に焼かれることしかできなかった。何をしてもよい、もちろん何もしなくてもよい。それは気楽だが、すごく淋しいことだ。世界はおれのことなど必要としていないのだから。まっしろなカンバスに、何を描けばいいのかわからない。

あれほど望んだ自由を、いざ手中にした時にそこに待っていたのは単なる困惑だった。おれはゴールテープを切ってしまった。でかでかと書かれた「自由」の文字がひらりと宙を舞った。辛く苦しい疾走の時間が、今になって恋しい。

もちろん何かを成し遂げることだけが価値あることだとは思わない。余白を持つこと、ただ寝転がることにだって意義はある。というか、意義に縛られるのはナンセンスだ。価値があるものとないもの。そういう尺度を絶対視した瞬間に、おれたちは生きる意味を失ってしまう。どんな競技にも世界一の存在はいて、俺は一位じゃないんだから。自分の存在は無価値になる。

そういう意味で、おれたちは一度自由にならなければならない。生きていくなかで染みついた、勝ちへの欲求を捨てなければならない。ほかの誰かと比べて自分を見つめること。誰かとの比較のなかに価値を見いだすことの空虚さ。

だとしても、自由は実際のところおれにとって何も世界を前に進めてはくれなかった。むしろ今の俺には、自分が歩いて行くべき道が必要だった。俺は目的地を持たずに好きに遊ぶことはできない。遊びの才能がない。完全なる無から楽しさを発掘することはできなかった。その才は、一種の特権だ。この文章を読んでいるあなたにそれがあるのだとしたら、それはとても歓ばしいことだから、今すぐこのページを閉じて、自分の遊びに没頭してください。世界を前に進めてくれ。まだ見ぬ景色を見せてほしい。

ところで、みんなはどういう生き方が美しいと思う? おれにとっての美しさは、「どういう方向であれ、人間がどこかに進んでいく姿」であって、その定義は今なお変わっていない。その美しさの定義は、おれが後生大事に抱えてきたもので、これを捨てたらおれがおれでなくなってしまう。美しくありたい。おれが美しく生きられているか、という観点において、おれが自由であることには一切の意味がない。

おれは自走する車にはなれなかった、レールを持ってはじめて走れる列車、電車でしかない。レールを敷かれないとどこにも行けない。それがおれという人間のひとつの本質だった。そしてこれはきっと他の多くの人間にも当てはまることだろう。

おれが美しく生きるために必要なものは、正しいフォームだった。だからこそ縛られることが必要だった。自由を捨てて、縛られる。それが俺を新たなステージへ連れて行ってくれる。自分ではない外部からもたらされたレールこそが、おれを進化させるものだったんだ。それは学校が決めた窮屈なルールかもしれないし、口うるさい上司かもしれない。おれたちはそれぞれの鎖を選んで、すすんで縛られねばならない。それはとても不愉快なことだ。必要な不快へ飛びこめ!

その先に、まだ見ぬ自分が待っている。

寿司が食べてえぜ