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良薬と甘言を見分けること

クラファンについて大人たちに叱られたことを話したら、20歳が「まじ、やることに指図されるの頭にくる」とむかついてた。
 でも、私はありがたいことだと思う。聞き流せばいいところを言葉を尽くして意見し、考えさせ、成功するようにと後押ししてくれてるから。
 時間、心、頭を私たちのために使ってくれてるわけで。「ふんふんふん、へーそうなんですねー」と聞き流す方が、その人たちにとっても楽なわけで。なのに、自分たちのリソースを私たちのことに割いてくれた。
 こんなありがたいことはないし、それだけ私(たち)のことを真剣に見ててくれてると思うし、私(たち)のことを考えてくれてるんだなぁとうれしくなる。

 私を詰めたり、問うたり、意見したり、叱ったりしてくれる人たちの価値観や考え方に共感することもあれば、納得できないこともある。「指図」と受け取るのは、きっと納得できないことを無理強いされたとき。
 相手次第ではあるが、もらったものは一度咀嚼する。受け取った言葉のままだと何言ってるのかわからないので、咀嚼して自分の言葉にしてみる。そこで納得できるかできないか、自分に必要か否かを判断を下す。
 6月はじめにもらった「なりたい役割と現実。そのギャップの縮め方が必要」という言葉。4か月経った今、ようやく理解できた。言われたときは、さっと血が引くくらいショックだったが、今は自分がしたいことを考えるときの指標となっている。

 もらったものを咀嚼して、違うと思ったら吐き出す。もらいものをすべて受け取る必要はない。「なりたい役割と現実。そのギャップの縮め方が必要」も、一度はシャットアウトしたし。
 シャットアウトしても、引っかかった言葉を忘れることはない。だから、別な場面で思い出す。そのときが咀嚼のタイミング。それまで悶々としながら、あるいはすっかり忘れてすごす。
 咀嚼せずに受け取ることは、まずない。「〜〜した方がいいよ!」と言われても、それが私の尊敬する人の言葉であったとしても従わない。
 私は私の決断に対する責任を自分でとりたい。「あの人の言うとおりにしたせいで」なんてことは言いたくない。そもそも「言うとおり」にした責任は私にあるわけで。
 だったら咀嚼して自分のものとなった言葉に従う。そして自分で責任をとる。

 自分のことを考えてくれている人と、そうではない人と、見分けはつく。当たり障りのないことや、耳障りのいい言葉、言ってる本人の自己満足を見抜ける程度には歳を重ねた。
 苦い言葉ばかりが良薬ではない。けれど、甘言だけに耳を貸していいわけない。それは私は石橋を叩いて叩いて叩き割るタイプだからなのか?
 いや、一見楽しそうな道でも見えない落とし穴があることがある。自分のことを考えてくれてる人が「そっちは危ないよ」と言うなら、一考する価値はある。

 私は誰の指図も受けない。
 私は私の命令でしか動かない。
 私は私に命令する。「私のことを考えてくれてる人の言葉は受け取って、咀嚼して、選択せよ」と。



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