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夢を塗った唇ー『パーフェクト・ブルー』

 ついに、という心持で観に行って、その高い期待も見事に超えられた。これは確かに、広く長く影響力を持っているのも納得の、つまりは名作だと感じた。本作のキャプチャ画像が(しばしば無文脈に)巷で登場し続け、映画館でかかればすぐさま席が埋まる(自分の観た回も満席であった)。今でも、というか今に至りますます強まるその威光には、確かな裏付けがあったのだ。


 自分がとりわけ魅了されたのは、カットつなぎの滑らかさである。場面の転換が起こるカット割りを、小道具の配置やキャラクターの動きを一致させることでシームレスに見せる、そうした技が本作では多用される。その巧さ自体が見ていて心地よいのだが、より素晴らしいのは、その滑らかさが虚実の境目を見失ってゆく未麻の感覚をこちらに追体験させる効果を果たしていることだ。先のようなカット割りの大半では、主役である未麻の動きがカット間を繋ぐ媒体となっているのだが、それはまるで未麻が瞬間移動したかのようにも一瞬見える。これは反対に未麻側から見れば、自分は動いていないのに外界が突如変化した、ということになる。夢現や泥酔状態でよく陥る、あの外界の信頼性が低い感覚と同じだ(実際には自分の安定性が低下しているのだが)。さらに、本作はかなり徹底して未麻のそばにカメラを置いた状態で進行するために自然と観客も未麻に同調しており、未麻だけが固定して空間が変容すると作品世界に対する不安感が一層煽られることとなる。ちょうど激しく錯乱していく未麻と同じように、だ。またやや角度を変えれば、一貫して画面上に映り続ける未麻は、フレームという空間に囚われているという見方もできる。それは、ストーカーと自意識過剰=他人の/自らの視線から逃れられずに苦しむ未麻の状態とリンクする。それは象徴としての意味以上に、観客に未麻の感じている閉塞感を生理的なレベルで共有し、未麻への移入度を一層高める意義を持つ(余談だが、滑らかなカットつなぎが生む閉塞感という点では放映中の『ゾン100 』1 話前半にも同様な印象を持った)。事程左様に、本作におけるカットつなぎは高度な技術でありかつ克明な象徴でもある、実に核心的な要素なのだ。
 
 最後にもう一つ、雑感程度のことも記したい。今敏は夢幻的な演出に長けた作家という定評がある。実際そうしたモチーフを終生扱い続けたことは事実で異論の余地もないが、自分の観た範囲での感覚を率直に述べると、今敏の真髄はむしろ「夢現状態の人間の描き方」だと思える。言い方を変えれば、今敏作品においては狂気的で不条理なビジュアルが目立つけれども、それには常に作品世界内の現実が紐づいており、その現実の精緻な生々しさこそが今敏の独創性なのではないか、ということだ。例えば本作における未麻の部屋の質感、何気ない仕草の端々には、相当なこだわりが無ければ描けないリアリティがある。これは、例えば湯浅政明作品の底の抜けた不条理性とは志を異にしているように思える。特に自分の気にかかるのは、今敏作品の人物たちの「口元」である。未麻の、そしてパプリカの真っ赤な唇、内田と少年バットの乱れた歯並びなどは顕著な例で、そもそも皆の唇が他監督作品のそれと比べてぶ厚くはないだろうか?そして(個人的な感性に過ぎないと言われればそれまでだが)、口元がはっきりした人物は存在がより立体的に感じられる。恐らくそれは、口が会話・食事といった命の根源的営みの主道具であり、そして最も触覚が刺激され発達している体の部位だからだ(常に摩擦している体の部位は口中だけではないか?)。そのような強い立体感を持つからこそ、彼らが荒唐無稽な夢空間に迷い込む時、こちらまでも引きずり込まれるような、「リアルなアンリアリティ」が生まれるのではないだろうか。


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