知る必要はあっても疑う必要はない

個人を越えた意識あるいは高次存在からのメッセージを受け取るとき、少しでも疑いがあれば受け取ることができず、疑った瞬間に声は消えると言えます。この疑いとは自分自身への疑いでもあります。聞こえるもの、見えるもの、触れるものをなかったことにしてしまうということです。人間関係など日々の出来事においても、無自覚になかったことにしている知覚や感情反応は多々あるものです。後になってから、こんなに嫌だったんだ、と気づくとか。

メッセージを受け取るとは、高次存在が日本語など地球の言葉を話せるわけではなく、その人が持つ情報を使って言葉として受け取ります。肉体の持つ限られた情報を使うわけではないので、日本語しか話せないから日本語でしかチャネリングしないわけではなく、多言語を持ち出すこともありますが、今ここで生きる私が理解できる言葉になることは当然です。持っている情報を使い、個人の信念体系というフィルターを通して伝えられるものは、その前提があったとして疑う必要はありません。まったく別のところで、信念体系のフィルターは通気の良いものになるようお掃除し、どんなフィルターなのか知ろうとする必要があります。知る必要はあっても疑う必要はないということです。

そして感謝というのは、利害とは関係のないところにあるもので、得をした時、助けられた時に生まれるものではありません。個人の都合に合わせてくれた時にだけ、神の助け、ガイドの導きを感じるものでもありません。

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