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「好き」という言葉が好きじゃなかった、ポルトガルに行くまでは

この前友だちと話していたら、「好き」という言葉のむずかしさについて盛り上がった。その子もわたしも、「好きな○○」を聞かれるのがずっと苦手だったのだ。

自分は難儀な性格だなあと思っていたけど、意外と多いのかな、「自分ごときが『好き』と言ってはいけない」という呪縛にかかっている人。
「わたしよりもっと好きな人、もっと詳しい人がいる。まだ『好き』を自称してはならぬ」と言葉に責任を持とうとするほど、どんどん「好きなもの」がなくなっていく人。

そんなわたしが少し考え方を変えられたのは、2年前にひとりで行ったポルトガルだった。首都リスボンとポルトの間にあるちいさな街、アヴェイロでのこと。

大西洋にほど近い、運河の街。

アヴェイロには、なぜかアートらしきものが街中に散りばめられていた。素人目にはどれもあまり洗練されているとは思えない、けれど、それがまた心地よい。

そのなかでもとくにわたしの目を引いたのは、トランスボックスに若者(といってもそこまで若くはない)が描いたヘビの絵。

この大雑把に見えるヘビたち、描いている若者はほんとうに、ものすごく生き生きとしていて。じっと見ていると自慢気に笑ってくれた。撮って撮って、とジェスチャーする。

その姿を見て、ああ、と思った。

「ああ、ものすごく秀でてなくても好きって言っていいんだ。表現していいんだ」

我ながら彼女に失礼だなあ、と思う。
でもこのとき、まわりの評価を気にせず「好き」を振り回し、ずんずん進んでみるほうが幸せなんだと納得できた。まさに「すとん」という言葉そのもの、ほかに言いようがないくらいの腑に落ち感。そう、「好き」は相対的なものじゃなくて絶対的なものなんだよね、と。
これもひとつの、「知っていたけど理解していなかったこと」だ。

このときわたしは20代末期。そんなこと10代、20代前半でわかっておくべきことかもしれないけど、ともかく、あのヘビはわたしにとって立派なアートなのさ。

自分の半端さをを丸呑みし、表現することは、人生の朗らかさに影響を及ぼす。アヴェイロの彼女の表情を見て、そんなことを感じた。
だから帰国後、そこまで語ることがない段階から、好きなことには「好き」と言ってみるという地味なリハビリをはじめてみた。そのたびに恥ずかしかったり、ドキドキしたり、「言えたぞ」と達成感を持ったり。
「ラジオが好き」とか「ポルトガル大好き」、「ワインが好き」と軽く言えるようになったのは、わたしの中では大革命なのだ。

このリハビリ、もし「好き」という言葉に萎縮しがちな人がいたら一緒にやってみてほしいなあと思う。
単純な話、人生に好きとか愛とかは多いほうが、豊かだと思うから。

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